TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 おまけ

※仁の元カノ・凛視点@です※





東京大学医学部附属病院。


夕方の回診を終え、疲れ果てた私は、医局の片隅で冷めきった缶コーヒーを口に運んでいた。

 

 

東大医学部を卒業し、現在はそのまま東大病院で研修医としての過酷な日々を送っている。

 

26歳。

 

周囲からは「東大卒の女医」として将来を嘱望されているのかもしれないけれど、私の心の中には、ずっと冷たい隙間風が吹き抜けていた。

 

 

 

 

 

「ねえ、凛。ちょっとこれ、知ってる?」

 

 

同期の研修医で、学生時代からの友人でもある麻衣が、スマホを片手に血相を変えて走ってきた。

 

 

「何? 今、次の当直のレポートまとめてるんだけど……」


「そんなの後、後!驚かないで聞いてね。……アンタの元カレの櫻井くん、結婚したらしいじゃない。しかも、アメリカ人の美人女医と!」

 

 

 

 

 

……え?

 

 

 

 

 

心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。

 

冷たいコーヒーが喉につかえそうになる。

 

 

「え…?嘘でしょ……?仁が、結婚?」


「嘘じゃないって!T医大の小児科の先生のSNSに、ハワイでの結婚式の写真が載ってるの。ほら、見てよ」

 

 

麻衣が突きつけてきた画面を、私はすがるように見つめた。

 

そこに映っていたのは、ハワイの真っ青な海をバックに、タキシード姿で眩しいほどにカッコいい仁の姿だった。

 


彼が24歳の時に別れてから、3年半。

 

28歳になった仁は、学生の頃の面影を残しながらも、すっかり大人の男の、頼もしい『医師』の顔をしていた。

 

そして、その隣で純白のウェディングドレスを纏い、仁の腕に幸せそうに寄り添っているのは、眩しいほどの金髪と吸い込まれそうな碧眼を持った、モデルのように綺麗な白人の女性。

 

 

T医大の友達に聞いたんだけど、アメリカの大学病院から須本先生を追ってやってきたエリート女医さんなんだって。櫻井くんとT医大で“須本先生の一番弟子を取り合ってるうちに、スピード結婚だってさ。まさに運命だよね」

 

麻衣の言葉が、遠くの方でぼやけて聞こえる。

 

 

(嘘……嘘だよ、仁……)

 

 

胸の奥が、引きちぎられるように痛かった。

 

 

 

 

 

 


3
年半前、大学の近くのカフェで、私は仁に別れを告げた。

 

東大病院に残らず、個人的な憧れである須本先生を追いかけてT医大病院へ行くと言い出した仁に、私は怒りと失望をぶつけたのだ。

 

 

『私との将来や、東大のキャリアを捨てるの?……もういい。ついていけない』

 

 

あの時は、本気でそう思っていた。

 

東大病院に残ることこそが正義で、そこを離れる仁が間違っていると、頑なに信じて疑わなかった。

 

別れてやれば、仁は後悔して私の元に戻ってくる、そんな傲慢な計算すらあったのかもしれない。

 

 

だけど、現実は違った。

 

仁と別れてからの3年半、私はそれなりに他の男性との出会いもあった。

 

合コンに誘われたり、同じ東大病院の研修医や先輩医師からアプローチを受けることもあった。


けれど、誰と話していても、誰と食事をしていても、どうしても頭の片隅で彼らと「仁」を比較してしまっている自分がいた。

 

東大卒という肩書にプライドを持ち、自分のキャリアばかりを気にする男たち。


彼らを見るたびに、私は思い出してしまうのだ。

 

自分のキャリアや周囲の目を一切気にせず、ただ一人の憧れの医師を追いかけて、すべてを懸けて飛び込んでいった、あの仁の真っ直ぐな瞳を。

 

 

 

――仁よりいい男なんて、どこにもいなかった。

 

 

 

私は、自分の独りよがりなプライドのせいで、世界で一番カッコよくて、世界で一番私を愛してくれていた男を、自らの手でフってしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……凛?大丈夫?顔色悪いよ」


「あ……うん。大丈夫。ただ、ちょっとびっくりしちゃって」

 

 

私は麻衣に無理やり笑顔を返すと、逃げるようにトイレへと向かった。


個室に入り、鍵を閉めた瞬間、堰を切ったように涙が溢れて止まらなくなった。

 

スマホの画面の向こうで、仁は私が一度も見せたことのないような、心からの、そして大人の男としての余裕に満ちた笑顔を、その綺麗なアメリカ人の奥さんに向けていた。

 

もしあの時、私が彼の夢を応援して、一緒にT医大に付いていっていたら。


あの隣に笑顔で立っていたのは、私だったのかもしれない。

 

後悔の波が、今更になって激しく私を飲み込んでいく。

 


だけど、時計の針はもう戻らない。

 

仁はもう、私の手の届かない、ずっと遠い世界の眩しい場所へ行ってしまった。

 

私は溢れる涙を白衣の袖で何度も拭い、鏡に映る自分の情けない顔を見つめた。


せめて、彼が選んだ道が間違いじゃなかったのだと、彼が幸せになれたのだと、そう無理にでも納得するしかない。

 

 

 

さようなら、仁。

 

私の、最初で最後の、最高の恋人。

 

ハワイの青空の下で笑う元カレの幸せを、私は東大病院の冷たい廊下で、ただ一人、激しい後悔とともに見つめ続けるしかなかった――

 

 

 

 

 

 

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