●TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 おまけ●
※仁の元カノ・凛視点Aです※
ハワイの結婚式の写真を見てから、1年後。
私は東大病院での研修を終え、呼吸器内科の専門医としての歩みを始めていた。
日々運ばれてくる重症患者の管理、鳴り響くPHS、終わらない書類仕事。
あの激しい後悔の涙は、日々の忙しさという泥の中に埋もれ、少しずつ風化していった――そう思っていた。
東京国際フォーラムで開催された、日本内科学会総会。
全国から何千人もの医師が集まるその巨大な会場で、私は偶然、その2人とすれ違うことになった。
『ドクター・スモトの次の論文、私がデータの精査を手伝うわ。ジン、あなたは大人しく外来のカルテをまとめておいて』
『おいおい、オレだって統計ソフトの扱いくらい君より手慣れてる。須本先生のサポートはオレの仕事だ』
聞き覚えのある完璧な英語の発音。
そして、それに重なる少し低くて自信に満ちた、かつて誰よりも大好きだった男の声。
心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
立ち止まり、恐る恐る振り返る。
そこにいたのは、181pの長身をチャコールグレーのスーツで包んだ仁だった。
学生の頃の線の細さは完全に消え、一人の「一人前の医師」としての圧倒的なオーラを放っている。
そしてその隣には、知的なハーフアップにまとめ、すっきりと美しいパンツスーツを着こなした金髪碧眼の女性。
彼女の左手薬指には、仁の右手のものとお揃いの、シンプルなプラチナの指輪が光っていた。
「あ……」
声にならなかった。
ただ呆然と立ち尽くす私に、すれ違いざま、仁の視線がふっと重なった。
仁は一瞬、驚いたように目を見開いた。
世界で一番優しくて、世界で一番私を甘やかしてくれた、あの懐かしい瞳。
私はとっさに身構えた。
惨めな姿を見せたくなくて、逃げ出そうとした。
だけど、仁は逃げなかった。
彼は彼女に「ちょっと待ってて」と優しく声をかけると、真っ直ぐ私の方へ歩いてきた。
「久しぶり、凛。元気にしてたか?」
その声は、驚くほど穏やかだった。
恨みも、気まずさも、過去への未練も一切ない。
ただ、かつて同じ道を志した旧友に向けるような、温かくて真っ直ぐな大人の男のトーンだった。
「……うん。なんとか、東大病院で呼吸器内科やってる。仁は、小児科、頑張ってるみたいだね」
「ああ。毎日大変だけど、最高の師匠と、最高の相棒がいるからな」
仁はそう言って、少し離れた場所でこちらをじっと見守っている彼女を振り返り、優しく微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、私の中で、何かがストンと腑に落ちた。
あの日、私が「ついていけない」と切り捨てた仁の夢は、独りよがりなんかじゃなかった。
彼は自分の信じた道を泥臭く突き進み、東大のキャリアなんかよりもずっと価値のある、最高の居場所と、彼を心から支えてくれる本物の伴侶を手に入れたのだ。
「櫻井先生、次のセッションが始まるわよ」
彼女が、英語ではなく、少し拙い、だけど綺麗な日本語で仁を呼んだ。
彼女の碧眼が私を捉える。
そこには敵意ではなく、仁の過去を知った上での、大人の女性としての深い包容力と敬意が込められていた。
「じゃあな、凛。お互い、良い医者になろう」
仁はそう言うと、私の肩をポンと一叩きして、彼女の元へと戻っていった。
二人の背中が、学会の人混みの中に消えていく。
私は、もう泣かなかった。
胸の奥を締め付けていた後悔の鎖が、不思議とすーっと解けていくのが分かった。
学会から帰った次の日。
東大病院の病棟を歩く私の足取りは、昨日までとは明らかに違っていた。
「林谷先生、302号室の患者さん、少し喘鳴が強くなっています!」
「すぐ行きます。吸入薬の準備と、ポータブルのレントゲンを手配して!」
看護師からの呼び出しに、私は迷わず指示を出す。
かつての私は、「東大病院というブランド」に守られ、レールの上を歩くことだけを考えていた。
失敗を恐れ、周囲の目を気にし、仁がそこから飛び出そうとした時、自分のプライドが傷つくのが怖くて彼を拒絶した。
だけど、今の私は違う。
目の前にいる苦しんでる患者さんを救うのは、東大の看板じゃない。
私自身の知識と、技術と、向き合う覚悟だけだ。
仁は、須本先生という憧れを追いかけて、自分だけの最高の医療を見つけた。
なら、私はどうだ。
私はこの東大病院で、私を頼ってくれる呼吸器の患者さんたちのために、命を懸ける。
それが、私が選んだ、私の道だ。
夕方、カンファレンスを終えて屋上へ出ると、東京の空が茜色に染まっていた。
ポケットの中で、私のPHSがまた激しく鳴り響く。
「はい、林谷です。……分かりました、今すぐ向かいます」
私はもう、過去を振り返って涙を流す「可哀想な元カノ」じゃない。
仁、あなたに負けないくらい、私も自分の足で、この場所で最高の医者になってみせる。
冷めきった缶コーヒーをゴミ箱に投げ捨て、私は白衣のポケットに両手を突っ込んで、前だけを見据えて走り出した。
私の目の前には、私にしか救えない患者たちが待っているのだから――
―END―