TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 9





「――櫻井、今日の外来のカルテ、もう全部チェックしたのか?すごいスピードだね」

 

 

 

デスクで資料を開いていた須本先生が、驚いたようにオレを見た。

 

 

「はい! 先生、午前中の急患のデータも全てまとめ終わりました! 午後のカンファレンスの準備もバッチリです!」

 

 

背筋をピンと伸ばし、これ以上ないほど爽やかな笑顔で答える。

あの遊園地デートの夜、オレのマンションでしらふのまま深く結ばれ、最高の朝を迎えた翌月曜日。

 

頭は冴え渡り、診察のスピードも的確さも、いつもの3倍のブーストがかかっている自覚はある。

 

最愛の女性を支える男としてのモチベーションが、完全に天井を突き破っていたのだ。

 

 

(……よし、今のところ完璧だ。東大卒のポーカーフェイスは崩れていない。周囲のナースたちにも、オレとシンシアの関係は絶対にバレていないはず……!)

 

 

心の中でガッツポーズをしていると、医局のドアが開き、ヒールの音を響かせながら「彼女」が入ってきた。

 

 

「ドクター・スモト、先ほどの症例のカンファレンス用データです。……それと、ジン」

 

 

髪を鉄壁のお団子に結い上げ、スクエアメガネをクイッと上げた、いつものクールな女医姿のシンシア。


彼女はオレのデスクの横を通りすがりざま、周囲に聞こえないほどの小さな、だけど昨日の甘さを微かに残した英語で囁いた。

 

 

『今日のジンのカルテ、いつも以上にキレがあって素晴らしいわ。……でも、一番弟子の座は譲らないからね、ダーリン』

 

 

メガネの奥の碧眼が、悪戯っぽく、だけど熱を帯びてオレを捉える。

 

 

「――望むところだ、スミス先生。君が本気を見せるなら、オレだって負ける気はないよ」

 

 

いつもの戦闘モードの笑顔を彼女に返す。


昼間は最高のライバル、だけど夜はオレだけの愛しい恋人。

 

このオンとオフの切り替え、そして二人だけの『秘密の空気感』が、たまらなく刺激的で、オレの胸を高鳴らせていた。

 

 

(よし、シンシアの演技も完璧だ。これなら誰にも――)

 

 

「あはは。二人とも、朝から相変わらず熱心だね」

 

 

コーヒーカップを片手に、オレたちのやり取りを特等席で眺めていた須本先生が、いつもの穏やかな笑顔のまま、だけど少し意地悪そうに目を細めてクスッと笑った。

 

 

「でも櫻井。……今日、なんだか妙に顔色が艶やかだね。何か良いことでもあったのかな?」


「え……!?い、いや、そんなことないです!いつも通り、小児科医としての情熱が燃えたぎっているだけです!」

 

 

オレは慌ててポーカーフェイスを取り繕った。

 

だが、須本先生は「ふーん」と楽しそうに顎に指を当てると、今度はシンシアの方を向いた。

 

 

「シンシアも、今日はお団子頭の結び目がいつもより少しだけ柔らかい気がするよ。アメリカにいた頃、君が珍しく機嫌が良い日の特徴にそっくりだね」


『な……っ!?ド、ドクター・スモト、それは私のデータ解析に何の関係も――』

 

 

シンシアが分かりやすく耳の裏まで真っ赤にして、マシンガン英語を喉に詰まらせる。

 

 

「ははは。君のお兄さんが愛ちゃんと付き合い始めた時も、朝から今の櫻井と全く同じ『ツヤツヤした顔』をして産科の医局に入ってきたからね。俺には一発でお見通しだよ」

 

 

須本先生はそう言って、デスクに飾ってある奥さんと子供達が写った写真立てを、愛おしそうに手に取った。

 

そして、どこまでも深い、温かい瞳をオレたちへと向けた。

 

 

「櫻井、小児科医っていうのはね、病気を治すだけじゃないんだ。その子の背景にある家族の幸せを守る仕事なんだよ」

 

「…はい」

 

「君にもいつか、自分の大切な家族を築いて、父親としての目線で子供たちと向き合える日が来るといいな。そうすれば、君の医療はもっと深く、優しいものになるはずだからね」

 

「……あ」

 

 

先生の口から紡がれたその重みのある言葉が、オレの胸の奥に真っ直ぐに突き刺さった。

生は、いつもの穏やかな笑顔のまま、すべてを、それこそ何から何までとっくに気付いた上で、オレ達の新しい一歩を心から祝福してくれていたのだ。

 

IQ180の天才統括ドクターであり、私生活でも爆速で学生結婚をキメてきた人生の先輩には、隠し事なんて最初から不可能だったらしい。

 

 

『……もう、ドクター・スモトには敵わないわね』

 


シンシアが諦めたように、だけど最高に幸せそうに英語で呟き、スクエアメガネの位置を直した。

 

 

「ありがとうございます、須本先生。……でも、先生。付き合っても、オレが先生の一番弟子の座を彼女に譲るつもりはありませんから!」


「うん、その意気だよ櫻井。じゃあ、幸せいっぱいの二人には、今日の午後の外来をいつもの2倍のスピードで回してもらおうかな」

 

「「はい!」」

 

 

オレとシンシアは同時に声を揃えて返事をした。


バレてしまった恥ずかしさはあったけれど、憧れの師匠からの公認をもらい、オレたちの絆はより一層強く、確かなものになった。

 

昼は最高のライバル、夜は最愛の恋人。

オレは隣に立つシンシアと小さく視線で火花を散らしながら、世界一の幸福感を胸に、子供たちが待つ診察室のドアを今日も力強く開き直すのだった――

 

 

 

 

 

 

NEXT(シンシア視点)