●TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 7●
凛と別れてからの4年間、俺の生活は「医療と須本先生」だけで満たされていた。
恋愛の優先順位なんて最下位。
27歳の独身男としていささかストイックすぎる自覚はあったが、寂しさを感じる暇すらなかった。
シンシアに出会うまでは――
『――櫻井先生に癒しをあげたい、なんて盛り上がっている女の子たちがいたわ。クールな私より、可愛いナースの子の方がいいんでしょう?』
あの昼下がりのカフェ。
カフェラテのグラスを両手で包み、いつになく弱気で、だけど隠しきれない嫉妬を碧眼に滲ませてそう呟いたシンシア。
その愛らしさにオレの理性のブレーキは完全に焼き切れて、口が勝手に動いていた。
『……君だよ、シンシア。オレが欲しいのは、君だ。あの本屋で君の素顔を見てから、ずっと君のことばかり考えてる。ナースの女の子たちなんて、目に入らないくらいに』
東大卒のポーカーフェイスなんて、あの瞬間、跡形もなく粉砕されていた。
一度決壊したオレの感情は、もう誰にも止められなかった。
このカフェでの不器用な告白を経て、オレたちの距離は急速に縮まっていくことになる――
「ごめんね、二人とも。病院に戻るよ」
「「お疲れ様です!!」」
難治性の症例が無事に軽快退院した日の夜。
打ち上げの居酒屋の席で、急な呼び出しで無念の途中退席となった須本先生を送り出し、残されたのはオレとシンシアの二人だけ。
普段なら医局で「一番弟子はオレだ」「私よ」と英語でやり合っているはずなのに、あのカフェでのやり取りを経て、オレ達の間に流れる空気はどこか甘く、ひどく熱を帯びていた。
『今日のジンの処置、いつも以上にキレがあって素晴らしかったわ。私の完璧なデータ処理に、ちゃんと付いてこられたじゃない』
『君に認められるために、オレがどれだけ海外の論文を読み漁ってると思ってるんだ。……一番弟子の座も、君の視線も、他の誰にも譲るつもりはないからな、シンシア』
いつも通りの一番弟子論争。
だけど、その本質はもう違っていた。
お互いにハイペースで日本酒を煽り、グラスが空くたびに、私服のままでお団子頭を少し崩した彼女の艶っぽい姿に視線が吸い寄せられる。
酒の勢いなんかじゃない。
オレは、しらふの時からずっと、この8歳年上の天才女医に、狂おしいほど溺れていた。
店を出て、どちらからともなくタクシーに飛び込み、オレのマンションのドアが閉まった瞬間。
「……シンシア」
もう我慢の限界だった。
181pの体躯で彼女を壁際に押し包むようにして、オレは夢中でその唇を奪った。
シンシアは驚いたように小さな吐息を漏らしたが、すぐにオレの首に細い腕を絡め、熱く、激しく応えてきた。
きっちりとしたお団子頭が完全に解け、あの本屋の時と同じ、ふわふわの天然パーマの金髪がハラハラとオレの指の間に零れ落ちる。
スクエアメガネを外した彼女のグリーンアイは、潤み、熱を帯びて、一人の愛しい女性としてオレだけを見つめていた。
『……もう、ライバルのフリをするのは終わりだ。君がナースたちの噂話に胸を痛めていたあの日から、オレ、ずっとこうしたくて頭がおかしくなりそうだった』
『……ジン……っ。知っていたわよ、あなたが私をどんな目で見ていたか……。ばかジン、生意気な年下のくせに……っ』
ベッドのシーツの海に、彼女の美しい金髪が鮮やかに散らばる。
普段の厳しい口調からは想像もつかないほど、切なげな声を漏らすシンシア。
オレは彼女の白い柔らかな肌に何度も唇を這わせ、熱に浮かされた英語で一晩中、狂ったように愛を囁き続けた。
『シンシア……愛してる。世界中の誰よりも、君を愛してる』
『あ……ジン……! 私もよ……ずっと、あなただけを……っ』
お互いが世界のトップを目指すドクターであることを、その夜だけは完全に忘れて。
ただ求め合う一つの激しい命として、オレたちは何度も、何度も深く重なり合った。
ジャスミンのような彼女の甘い香りに溺れながら、オレは27歳の男としてのすべてを注ぎ込み、彼女を強く抱きしめ続けた。
翌朝。
夏の眩しい朝の光が、カーテンの隙間から寝室に差し込んでいた。
ふと目を覚ましたオレの腕の中には、心地よい温もりと重みがあった。
隣でシーツに包まれながら、まだ眠りの中にいるシンシアの美しい横顔。
「……う、嘘だろ……」
やってしまった。
酒の勢いとはいえ、8歳年上の、しかも須本先生を取り合うライバルと一線を越えてしまうなんて。
昨夜、お互いの感情をすべてぶつけ合うようにして結ばれた記憶が、脳裏に鮮烈に蘇り、カッと顔が熱くなる。
さらに、ベッドのシーツに微かに残る痕跡を見て、オレの心臓はさらに激しく跳ね上がった。
(嘘だろ……シンシア、まさか、初めてだったのか……!?)
35歳までアメリカの最先端の現場で、研究一筋で論文ばかりを書いてきたという彼女の過去が脳裏をよぎる。
完璧に自分のキャリアをコントロールしてきたはずの彼女が、日本に来て、このオレに初めてを捧げてくれた。
その事実の重みに、オレの脳内コンピュータは一瞬でフリーズした。
這うようにしてベッドから抜け出そうとしたオレの腕を、シーツから覗く白い手が不意に掴んだ。
『……ジン、どこ行くの。うるさいわね……』
寝起きのシンシアは、メガネも、鉄壁のお団子頭もない。
本屋で見せた時以上に無防備で、だけど少し頬を赤らめてオレを見上げていた。
『あ、いや……その。シンシア、昨日のことだけど……』
エリートを自負してきたオレとも思えないほど、情けない声が出る。
大人の男の余裕なんて、彼女の前では一瞬で蒸発した。
けれど、オレの目だけは真っ直ぐに彼女を見据えていた。
『責任は取る。大人の男として、行きずりで終わらせるつもりは絶対にない』
オレなりに決死の覚悟でそう言うと、シンシアは一瞬驚いたように目を見開いた。
そして、いつもの勝ち気なドクターの表情を取り戻して、クスクスと声を上げて笑い出した。
『責任?おかしいわね。じゃあ、ちょうどいい提案があるわ。……私、日本でのビザの更新手続きが面倒だと思ってたの。だから、ジン。ビザのために結婚してあげてもいいわよ?』
彼女なりの、強がりと照れ隠しの言葉。
だけど、一人の大人の男としての猛烈な覚悟が、俺の胸の奥でカッと熱く燃え上がった。
オレはベッドの端に座り直し、彼女の細い手首を優しく、だけど二度と離さないという強さで握りしめた
『……冗談じゃない。そんな理由で、君をうやむやにするつもりはない』
オレが真っ直ぐに英語で告げると、シンシアは一瞬、驚いたように目を見開いた。
『オレは、あの本屋で君の素顔を見たあの日から、ずっと君のことが好きだったんだ。病院でナースたちの噂話を聞いて君がヤキモチを焼いてくれた時も、愛おしくて仕方がなかった』
「ジン……」
『君の初めてをオレがもらった以上、大人の男として一生を懸けて責任を取る。……シンシア・スミス。オレと、ちゃんと付き合ってほしい。君の隣は絶対に誰にも譲らない』
完璧な発音の英語で、オレの持てるすべての誠実さを込めて告白した。
いつも強気だった35歳の天才女医が、みるみるうちに瞳を潤ませ、耳の裏まで真っ赤に染めていく。
『……本当に、生意気な年下ね。責任だなんて、そんな古い男みたいなこと言って……』
彼女はポロポロと涙を溢れさせながら、だけど今日一番の、あの本屋で見た最高の眩しい笑顔を咲かせて、オレの胸の中へと飛び込んできた。
『いいわよ、ジン。あなたのその真っ直ぐな言葉、合格よ。……これからよろしくね、私のボーイフレンド』
オレは愛おしさが限界を突破して、彼女の柔らかな体を強く抱きしめ、ふわふわの金髪に何度もキスを落とした。
本当の恋人としてのスタートを、オレは最愛の女性の温もりを胸にしっかりと噛み締めた――