●TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 6●〜シンシア視点〜
「あの…櫻井先生。お昼の休憩、もしよかったら下の食堂で一緒に――」
「あ、ごめん。パスで。ちょっと本屋に用事があるんだ」
ナースステーションで噂話を聞いてから数時間後。
私はジンの周りに群がろうとする看護師たちを横目に、白衣を脱いで逃げるように病院の外へと飛び出した。
向かったのは、病院から少し離れた路地裏にある、落ち着いた雰囲気のイタリアンカフェ。
普段なら一人でテキパキとサラダを口に運んで終わらせるはずのランチタイム。
だけど今日の私は、パスタをフォークに巻きつける手すらどこか上の空だった。
(……“あんなクールな女医より、可愛いナースの方が癒される”……か)
午前中の彼女たちの言葉が、頭の中で何度もリフレインする。
私だって、あの日、あの本屋にいた時くらいは、ただの「一人の女性」としてジンと接していたはず。
それなのに、病院に戻ればまたいつもの鉄壁のドクターだ。
ジンが本当に私を「ただの仕事のライバル」としか見ていないのだとしたら、私のこの胸のモヤモヤはどこへぶつければいいのだろう……
「――お。やっぱりここにいた」
不意に、上から降ってきた少し低くて心地よい声。
驚いて見上げると、そこにはジャケットを片手に持ち、シャツの第1ボタンを外したジンが立っていた。
「ジ、ジン……!?なんでここに」
「なんでって、シンシアが病院を出て行くのが見えたから。本屋の用事はさくっと済ませて、後を追ってきたんだよ」
彼は当然のように私の向かいの席に腰掛けると、「同じパスタと、アイスコーヒー」と店員に手慣れた様子で注文した。
私服ではないけれど、白衣を脱いで少しラフになった彼の181cmの姿が、やけに近くに感じられて心臓がドクンと嫌な跳ね方をする。
『……ストーカーみたいな真似はやめて頂戴。私は一人で静かにディナー……じゃなくて、ランチを楽しみたかったのよ』
いつものように、ツンとした強気な英語で返してしまう。
でも、ジンは怒るどころか、楽しそうにクスクスと笑った。
『ディナーとランチを間違えるなんて、シンシアらしくないな。……何か悩み事でもあるわけ?さっきから、ずっと難しい顔してパスタを見つめてただろ』
『……別に。あなたには関係ないわ』
そっぽを向く私に、運ばれてきたコーヒーを一口飲んだジンが、少しトーンを落として真っ直ぐな瞳を向けてきた。
『関係なくないよ。……オレたち、あの本屋で会ってから、なんかちょっと変だろ。病院ではいつも通りだけど、君がオレの顔を見るたびに、妙に気まずそうな顔をするから。……オレ、何か気に障ること言ったか?』
ジンの、嘘偽りのない真っ直ぐな英語が、私の胸の奥の不機揮な塊をじわりと溶かしていく。
この男は、ずるい。
病院では生意気に突っかかってくるくせに、二人きりになると、どうしてこんなに優しくて誠実な目で私を見るのだろう。
私はカフェラテのグラスを両手で包み込み、視線を落とした。
『……何も。ただ、ちょっと考え事をしていただけ』
『何の?』
『……あなたのことよ』
気付けば、本音が口から零れ落ちていた。
慌てて口を手で押さえたけれど、もう遅い。
向かいの席のジンが、驚いたように目を見開いてフリーズしているのが分かった。
東大卒のポーカーフェイスが、一瞬でガタガタに崩れている。
『え……お、オレの、こと?』
『……そうよ。あなた、病院のナースたちに随分と人気があるみたいね。午前中、“櫻井先生に癒しをあげたい”って盛り上がっている女の子たちがいたわ』
私はわざと意地悪なトーンで、だけど隠しきれない嫉妬を滲ませて言った。
すると、ジンは一瞬きょとんとした顔をした後、顔を耳の裏まで真っ赤に染めて、手で口元を覆った。
『な……っ!シンシア、それ聞いてたのか!?違う、オレはナースたちなんて何とも思ってないし、だいたい、オレが求めてる癒しっていうのは……』
『求めてる癒しって、何よ?』
私が身を乗り出してグラスの奥から覗き込むと、ジンは完全にノックアウトされたように視線を泳がせ、消え入りそうな声で、だけどはっきりと英語で呟いた。
『……君だよ、シンシア』
「……え」
『オレが欲しいのは、君だ。……病院ではライバルだけど、あの本屋で髪を下ろした君を見た時から、オレ、ずっと君のことばかり考えてる。ナースの女の子たちなんて、目に入らないくらいに』
ジンの真っ直ぐな、27歳の男としての告白。
その言葉の甘さに、今度は私の方が完全にフリーズする番だった。
胸の奥の冷たい痛みは一瞬で吹き飛び、代わりに激しい鼓動と、顔が燃えるような熱さが押し寄せてくる。
『……ばかジン。そんなこと、こんな場所で言わないでよ……』
『言わせたのは君だろ』
ジンは照れくさそうに笑いながら、だけど私のカフェラテを包んでいた手に、自分の大きな手をそっと重ねてきた。
静かな昼下がりのカフェの片隅で、その手の温もりだけが、驚くほどリアルに伝わってくる。
ちょっと気まずくて、だけど胸が苦しくなるほど甘い、二人だけのランチタイム。
私はジンの大きな手をそっと握り返しながら、これから始まる誰も止められない恋の予感に、深く、甘く、溺れていくのを感じていた――