●TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 5●〜シンシア視点〜
『ドクター・スモトが、ついに日本へ帰国する――』
その報せがアメリカのシンシナティ大学病院の研究室を駆け巡った時、私の胸にはこれまでにない激しい動揺が走っていた。
ハーバードの医学部を卒業し、これまで完璧に自分のキャリアをコントロールしてきた自負がある。
男の影なんて全くなく、研究と臨床のデータだけが私の人生のすべてのはずだった。
けれど、小児白血病のチームでドクター・スモトの右腕として彼の医療を特等席で見てきたこの3年間で、私は彼の、子供たちの命と向き合う真摯な姿勢と圧倒的な頭脳に完全に惚れ込んでいた。
彼がいなくなったシンシナティの研究室なんて、私にとってはもぬけの殻も同然だった。
『……ドクター・スモトのいない場所で、これ以上何を学べというの?』
周囲の教授たちは「せっかくのキャリアを捨てるのか」「なぜわざわざ異国の地へ行くんだ」と大反対した。
だけど、一度決めたら曲げないのが私のプライドだ。
日本の漢字の難しさや文化の違いなんて、ドクター・スモトの側で世界最高峰の医療を学び続けるためなら、些細な障害に過ぎなかった。
『パパ、ママ。私、日本に行くわ』
ワシントンの両親がひっくり返るほど驚くのを背に、私は片道切符の航空券を握りしめ、成田行きのフライトへと飛び乗った。
目的はただ一つ。
ドクター・スモトの“一番弟子”として、彼の背中を追いかけ続けること。
まさか飛び込んだ先のT医大病院で、運命的な出会いがあるなんてこの時は思いもしないで――
あの休日、大型書店の医学書コーナーで偶然彼と会ってから数日が経った。
病院での私は、いつも通り髪を一点の隙もなく後頭部でお団子に結い上げ、知的なスクエアメガネをかけ、白衣のボタンを上まで留めて診察にあたっている。
口を開けば強気なマシンガン英語でジンとやり合う、手強いライバルの「ドクター・スミス」だ。
けれど、あの日の記憶は、私の頭の片隅に強烈なスパイスのように残り続けていた。
私服のジンに「髪下ろしてるの、すごく似合ってる」とストレートに褒められた瞬間の、耳の奥が熱くなるような感覚。
漢字が読めなくて困っていた私を、少し背伸びをするような男らしいトーンでランチに誘ってくれた、あの27歳の男の子の素顔。
(……何考えてるのよ、私。仕事に集中しなさい)
私は医局の廊下を歩きながら、小さく頭を振って雑念を追い払おうとした。
その時、ナースステーションの影から、数人の若い日本人看護師たちの楽しげな話し声が聞こえてきた。
「ねえねえ、最近さ、櫻井仁先生めちゃくちゃカッコよくない?」
「分かる! なんか須本先生がアメリカから帰ってきてからの櫻井先生、目がキラキラしてるっていうか、大人の色気が出たよね」
ジンの名前が耳に飛び込んできて、私は思わず足を止めた。
影に身を潜めるなんて私のプライドが許さないはずなのに、なぜかその場から動けなくなってしまった。
「東大卒で181cmの超イケメンなのに、今まで全然浮いた噂なかったじゃん?聞いたら、何年か前に彼女と別れてからずっとフリーらしいよ」
「えー、じゃあ今も彼女いないんだ!狙っちゃおうかなぁ。でも最近、新しく来たアメリカ人のスミス先生といつも英語でバチバチ喧嘩してるよね」
「あー、あれね。スミス先生ってちょっとキツそうだし、櫻井先生も仕事のライバルとしか見てないでしょ。あんなクールな女医より、可愛いナースの方が櫻井先生も癒されるんじゃない?」
「キャハハ!」と響く、若い女の子たちの無邪気な笑い声。
その瞬間。
胸の奥を冷たい針でチクリと刺されたような、奇妙な痛みが走った。
呼吸が少し浅くなる。
今まで、アメリカの過酷な研究室でも、どんな論文のダメ出しを食らった時でも感じたことのない、ひどく不快な「胸の痛み」だった。
(……何よ、それ)
私は無意識に、白衣の胸元をぎゅっと握り締め、メガネの奥の碧眼を鋭く細めた。
私がクールな女医で、ジンにとってただの仕事のライバル?
癒しがない?
可愛いナースの方がいい?
ジンの周りに群がろうとする若い女の子たちの存在を想像しただけで、猛烈な不機嫌さが込み上げてくる。
そしてそれ以上に、ジンが私以外の誰かに、あの書店で見せたような優しい視線を向けるかもしれないという可能性に、私は激しく動揺していた。
「――何をサボっているの。早く次の患者のカルテを準備しなさい」
私はわざと低い、冷徹な英語のトーンでナースステーションの影から姿を現した。
「ひっ……!ス、スミス先生!」
看護師たちは顔を真っ白にして、散り散りになって逃げていく。
彼女たちの背中を睨みつけながら、私は深く溜め息をついた。
不器用で、プライドが高くて、35歳まで医療のことしか考えてこなかったこの私が。
あんな生意気な27歳の年下の男の子に、ここまで心を乱されているなんて、あまりにも計算外の誤算だ。
「おや、シンシア。朝から怖い顔をして、どうしたんだい?」
振り返ると、廊下の向こうから資料を抱えた須本先生が、いつもの穏やかな笑顔で歩いてきた。
そしてその斜め後ろには――白衣のポケットに手を突っ込み、181cmの長身を揺らしながら少し眠そうにアクビ噛み殺している、あの櫻井仁の姿があった。
ジンは私と視線が合うと、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
それから、周囲のナースたちに聞こえないような絶妙な声量と、完璧な発音の英語で、ニヤリと不敵に笑いかけてきた。
『おはよう、スミス先生。今日も朝から“気合”が入ったお団子頭だな。昨日遅くまで漢字の勉強でもしてたのか?』
いつもの生意気で小憎らしいジンの挑発。
普段なら『あなたに言われる筋合いはないわ!』と即座に言い返すところなのに。
『……ええ。おはよう、ジン』
私はフイッと顔を背けた。
メガネの奥の私の耳の裏が、看護師たちの言葉への嫉妬と、彼の顔を見た安心感で……今にも真っ赤に染まりそうだったからだ。
歩き出したジンの広い背中を盗み見ながら、私は胸の奥の微熱を自覚せざるを得なかった。
一番弟子の座も、彼の視線も、他の誰にも渡したくない――