●TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 4●
週末のあの甘やかな空気は、月曜日の朝、病院の自動ドアをくぐった瞬間に一変した。
T医科大学病院・小児科医局。
そこにいたのは、髪を一点の隙もなく後頭部できっちりとお団子に結い上げ、知的なスクエアのメガネをかけた、いつものクールな女医――シンシア・スミスだった。
『ドクター・スモト、先週のカンファレンスの修正データです。それと、105病棟の鈴木くんの件ですが…』
須本先生のデスクの横に立ち、淀みのない英語でテキパキと報告を入れている。
白衣のボタンは上まで留められ、あの書店で見せた、ふわふわの金髪も、少し垂れ目の優しい碧眼も、完全に封印されていた。
『うん、ありがとうシンシア。いつも助かるよ』
『光栄です、ドクター・スモト』
いつもの光景。
いつもの二人の空気。
……のはずなのに、オレの視線はどうしても、お団子にまとめられた彼女の髪の、耳の後ろあたりに向かってしまう。
(あのお団子を解いたら、あのふわふわの髪が流れて、メガネの奥の目が、あの時はあんなに真っ赤になって……)
「……ふっ」
思い出し、オレの口元が自然と緩んだ。
鼻から抜けるような笑い声が漏れる。
自分で自分が相当気味が悪い自覚はあったが、あのギャップの破壊力を知ってしまった今、普段モードでツンと澄ましている彼女を見るだけで、なんだか可笑しくてたまらなくなってしまうのだ。
「――おい、仁。朝から何ニヤニヤしてるんだ。気味が悪いぞ」
背後から、カルテの束を持った兄が通りすがりざまにオレの頭を小突いた。
「いっ……て。何でもないよ、兄さん。ちょっと、今週のシフトが楽しみだなと思って」
「嘘つけ。お前がそんな顔をする時は、大抵ろくでもないことを考えてる時だろ。東大卒のポーカーフェイスが台無しだぞ」
兄は呆れたように笑いながら去っていった。
危ない、27歳にもなって兄にこんな顔を見られるとは不覚だ。
オレは慌てて表情を引き締め、自分のデスクの資料に目を落とした。
だが、そんなオレの様子を、シンシアが見逃すはずがなかった。
須本先生への報告を終えた彼女は、ヒールの音を響かせながら、まっすぐオレのデスクへと歩いてきた。
腕を組み、メガネの奥の碧眼でオレを値踏みするように見下ろしてくる。
『何よ、ジン。さっきから私の顔を見てニヤニヤして。何か言いたいことでもあるわけ?』
低い、ドスの利いた英語。
病院での、いつもの戦闘モードのシンシアだ。
けれど、オレはもう怯まない。
むしろ、彼女が虚勢を張っているように見えて、さらに可笑しさが込み上げてくる。
『いや? 別に。……ただ、今日の髪型も、すごく『気合』が入ってて素敵だなと思ってさ、スミス先生』
わざと意地悪なトーンの英語で返し、お団子頭を指差して見せた。
すると、シンシアの表情が一瞬で固まった。
彼女の脳裏にも、間違いなくあの書店の記憶が蘇ったのだろう。
あの時、自分の髪を褒められて耳まで真っ赤にしていたシンシアが。
「……ッ!」
シンシアは一瞬、いつものマシンガン英語で言い返そうと口を開きかけた。
しかし、ここが衆目の集まる医局であることを思い出したのか、ぐっと言葉を飲み込んだ。
メガネの奥の綺麗な瞳が、怒りと恥ずかしさで激しく揺れている。
『……あなた、本当、生意気な年下ね』
周囲に聞こえないほどの小さな、だけど少しだけ尖った英語でそう呟くと、彼女はぷいっと顔を背けた。
その瞬間、お団子に隠しきれなかった耳の裏が、ほんのりと赤くなっているのをオレの目はしっかりと捉えていた。
「あはは、二人とも、朝から熱心だね」
資料を抱えた須本先生が、苦笑しながらオレたちの間に入ってきた。
「櫻井、今日の外来の準備はいい? シンシアも、回診に行こう」
「「はい!」」
オレたちは同時に返事をして、須本先生の後を追う。
「須本先生、今日の外来のカルテ、オレがもうチェックしておきました!」
「ドクター・スモト、私も同行します。アメリカでの症例と比較したいデータがあるの!」
歩き出しながら、オレとシンシアはいつものように視線でバチバチと火花を散らす。
「須本先生の一番弟子」を巡る戦いは、月曜日からも変わらず継続だ。
だけど、オレの後ろを歩くシンシアの気配が、ほんの少しだけ今までよりも近くに感じられた。
オレは前を向いたまま、須本先生にバレないようにもう一度だけ口元を緩めたのだった――