TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 25





「――おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあああ!」

 

 

 

T医大病院の小児科病棟、深夜2時。

突如響き渡った急患の激しい泣き声に、オレは仮眠室のベッドから跳ね起き、白衣を翻して処置室へと爆速で駆け込んだ。

 

的確な問診、素早いバイタルチェック、そして親御さんの不安を包み込むような完璧な発音の英語と日本語のミックス。

気がつけば時計の針は午前4時半を回点しており、東の窓からは東京の夜がゆっくりと明けていく、美しい朝の光が差し込み始めていた。

 

 

 

「ふぅ……」

 

 

ようやく静まり返った医局へ戻り、泥のように椅子に沈み込んでいると、コト、と温かいブレンドコーヒーがデスクに置かれた。

見上げると、須本先生がいつもの穏やかな笑顔で立っていた。

 

 

「お疲れ様、櫻井。……どうだい、初めての子育ての調子は?」

 

 

先生がコーヒーカップを口元に運びながら、悪戯っぽく鋭い目を細めて聞いてきた。

 

その質問を待ってましたとばかりに、オレは白衣のポケットから手を引き抜き、これ以上ないほど不敵な笑顔を咲かせてみせた。

 

 

「バッチリですよ、須本先生! 小児科医としてのオレのデータ解析と、シンシアとの完璧なチームディフェンスの前には、レンの夜泣きなんて些細なエラー(障害)に過ぎません!」

 

「ははは。君がそこまで胸を張るなら、俺も安心……」

 

そこまで言いかけた須本先生が、不意に言葉を詰め、オレの顔面を限界まで近づけてじっと凝視してきた。

 

 

「……櫻井、君、目の下に凄まじい『特大のクマ』ができているよ。自慢のポーカーフェイスが完全に寝不足で青ざめているじゃないか」


「え……っ!?」

 

 

オレは慌ててデスクの上の小さな鏡を覗き込んだ。

鏡の向こうには、必死に「パパドクターとして完璧です!」と強がっているものの、ここ一週間のノンストップ24時間体制のオムツ替えと抱っこの往復により、完全にオーバーヒートを起こして疲れ果てた28歳の男のリアルな顔が映っていた。

 

 

「あはは! 櫻井、やっぱりね」


須本先生は苦笑すると、デスクの上の美しい木製の写真立てを愛おしそうに眺めた。

 

そこには、ご自宅で待つ奥さんの明菜さんとお子さん達の笑顔がある。

 

 

「小児科医の知識があっても、我が子の夜泣きに向き合う戦場は別物だろう? 俺もシンシナティにいた時は、明菜と二人で毎晩ほとんど寝れなくて、次の日のカンファレンスで倒れそうになっていたからね。君のその『ツヤツヤした強がり』、当時の俺にそっくりだよ」

 

先生は楽しそうに笑いながら、白衣のポケットから医療用目薬を取り出すと、オレのデスクにコトッと置いた。

 

「ほら、これを点して少し目を休めなさい。大切な家族を命懸けで体調管理するのも父親の仕事だけど、君が倒れたら元も子もないからね。シンシアが怒ってワシントンに帰ってしまうよ」

「う……っ、それだけは絶対に阻止します」

 

 

先生の、一人の『父親』としての、そして人生の先輩としての深い、温かいアドバイス。

昨夜、マンションの寝室でシンシアとカモミールティーを飲みながら、お互いの薬指のプラチナの指輪を重ね合わせたあの眠れない夜の愛おしさが、胸の奥でじわりと熱いエネルギーに変わっていく。

 

 

(シンシア、今頃家でレンの朝のミルクをやってくれているかな……)

 

 

スマホの画面を見ると、シンシアから『ジン、昨夜もお疲れ様。レンはさっき寝たわ。冷蔵庫にスイーツを入れてあるから、帰ってきたらしっかり糖分補給してね、ダーリン』という、短い、だけど最高に甘い英語のメッセージが届いていた。

 

 

「よし、オレも早く残りのカルテを終わらせて、シンシアの待つ家に帰るか」

 

 

オレは先生にもらった目薬をギュッと握り締め、いつもの戦闘モードの笑顔を取り戻したのだった――

 

 

 

 

NEXT