●TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 24●
「――おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあああ!」
東京のマンションの寝室。
静まり返った午前2時の室内に、我が子・レンの驚くほどパワフルで元気な泣き声が、本日何度目かも分からない大音量で響き渡っていた。
「よしよし、レン、どうした?
お腹空いたか? それともオムツか?」
オレは弾かれたようにベッドから起き上がり、181センチの体をベッドの横のベビーベッドへと滑り込ませた。
東大卒のポーカーフェイスなんて、この一週間の寝不足でとっくに完全に崩壊している。
小児科医として、赤ちゃんの泣き声やバイタルチェック、オムツ替えの知識は誰よりも頭に叩き込んできた自負があった。
……が、知識と実践は別物だ。
24時間体制ノンストップで繰り広げられる「リアルな育児」という戦場を前に、オレの脳内コンピュータは今、完全にオーバーヒート寸前だった。
『ジン、代わるわ……。ミルクの準備は私が――う、うう』
隣のベッドから、ふわふわの金髪を乱れさせたシンシアが、フラフラと這い上がってくる。
いつも病院でスクエアメガネをクイッと上げて完璧な論理的思考を見せていた天才女医も、今や目の下に薄いクマを作った一人の疲れ果てた新米ママだった。
「ダメだ、シンシア。君はまだ産後の体が回復してないんだから、横になってろ。オレがオムツを替えて、抱っこして部屋を歩くから」
『でも、あなただって明日も当直でしょう?
ドクター・スモトに“櫻井は寝不足でキレがない”なんて言われたら、一番弟子のプライドが傷つくわよ……』
「言わせるかよ。そんなことより、君の体調管理の方が最優先だ」
オレは手慣れた(だけど必死な)手つきでレンのオムツを替え、ずっしりと重みを感じるようになった我が子をそっと腕の中に抱き上げた。
「よしよし、レン……。パパだよ、ここにいるからな……」
ブラウンヘアーを揺らし、吸い込まれそうなグリーンアイを涙で濡らしながら全力で泣き叫ぶレンを胸に抱き、オレは薄暗いリビングのフローリングを、ゆらゆらと揺れながら延々と往復し始めた。
「……ジン、ほら、温かいカモミールティーを淹れたわ。レン、ママに一度おいで」
いつの間にか後ろに立っていたシンシアが、優しい碧眼を細めて腕を差し出してきた。
彼女がレンを優しく抱き上げ、ソファに座ってあやすと、不思議なことに、さっきまで全力で泣き叫んでいたレンが、ジャスミンのような彼女の甘い香りに包まれて、ぴたりと泣き止んだのだ。
やがて、レンは小さな可愛いあくびを一つして、小さな5本の指でシンシアの白シャツをぎゅっと握りしめたまま、静かな寝息を立てて眠りについた。
「……ふぅ。私たちの小さな一番弟子、ようやく寝てくれたわね」
シンシアがソファで深く息を吐き、オレの肩にそっと頭を預けてきた。
「本当に、手強い患者さんだったな。……シンシア、お疲れ様」
オレは彼女の細い肩を引き寄せ、お互いの薬指のプラチナの指輪をそっと重ね合わせた。
外の窓からは、東京の夜がゆっくりと明けていく、美しい東の空の光が差し込み始めていた。
一睡もできなかった。
体は泥のように重い。
だけど、オレたちの胸の奥にある幸福感と情熱は、人生のどの瞬間よりも熱く、満ち足りていた。
「よし、オレ、急いでシャワー浴びて病院に向かうよ。須本先生に『櫻井、父親になってますますキレが増したね』って言わせてみせる」
『ふふ、期待しているわ、私のカッコいいパパドクター。……でも、帰ってきたら今日の夜のオムツ替えのシフトは、2倍頑張ってもらうからね、ダーリン』
「望むところだ、オレの綺麗な奥さん」
オレたちは短く、だけど最高に甘いキスを交わし、新しい3人の朝の呼吸を始めた。
オレたちの新米パパママとしての眠れない、だけど世界一愛おしい戦いは、ここから新しく、どこまでも熱く始まっていくのだった――