●TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 23●
「――仁、落ち着け!般若みたいな顔になってるぞ!」
T医大病院の産科病棟。
陣痛室の廊下で、兄の慎一がオレの肩をガシッと掴んで揺さぶってきた。
「落ち着いていられるか!
シンシアが、シンシアが今、中で命懸けで戦ってるんだぞ!」
オレは白衣のポケットの中で拳をぎゅっと握り締め、額の汗を拭うことすら忘れていた。
昨夜、36歳の誕生日を迎えたばかりのシンシアの陣痛が始まり、深夜に車を急いで病院へと爆速で走らせたのが数時間前。
小児科医として、高齢出産になる彼女の体への負担やリスクは、誰よりも分かっているつもりだ。
だからこそ、頭が真っ白になってパニックに陥りかけていた。
「分かってるよ。だがな、お前がそんな顔をしてたら中のシンシア先生が余計に緊張するだろ。……小児科医の櫻井仁先生、お前の出番はオレがこの手で無事に赤ちゃんを取り上げた『その後』だ。しっかりしろ」
産科医としての、そして『兄』としての傷のない真っ直ぐな瞳。
その言葉に、オレの胸の奥の焦燥感は、不思議なほどすーっと消え去り、確かな覚悟へと変わっていった。
「……ああ。頼む、兄さん。シンシアと、レンを……よろしく頼む」
「任せとけ。オレはこれでも、年間1200件以上の分娩数を担うレディースクリニックの次期院長だからな」
兄は不敵に笑うと、手術着の袖をまくり上げて分娩室へと入っていった。
分娩室に入り、オレはベッドの横でシンシアの細い右手をぎゅっと握りしめた。
ふわふわの金髪が汗で濡れてシーツに散らばっている。
彼女の碧眼は激しい痛みの波に耐えながら、必死にオレを見つめていた。
『ジン……っ、あ……っ!』
『ここにいるよ、シンシア!
深呼吸だ、オレの目を、手をしっかり握ってろ!』
ありったけの愛を込めて英語で彼女に声をかけ続ける。
35歳までアメリカの研究室にこもり、一人で世界のトップを走ってきた孤独な天才女医が、今、オレの手を壊れそうなほどの強さで握り締め、新しい命をこの世界に生み出そうと戦っている。
「よし、シンシア先生、いい波がきてるよ!
次で一気にいきましょう!」
兄の、これ以上ないほど頼もしい声が響く。
『シンシア!!!』
『あ、あぁぁぁぁぁ―――っ!!!』
彼女がオレの胸に顔を埋めるようにして、最後の力を振り絞った、その瞬間。
「――おぎゃあ!
ぎゃあ、ぎゃあ!」
分娩室の中に、驚くほど力強い、世界一美しい産声が響き渡った。
「おめでとう、仁、シンシア先生!
元気な男の子だ!」
兄がさっと処置を施し、生まれたばかりの我が子を優しく抱き上げる。
その瞬間、オレの目から熱い涙が溢れて止まらなかった。
「……産まれた。ジン、私たちの……『レン(蓮)』よ」
シンシアが汗まみれの顔で、だけど世界一優しい、美しい母親の笑顔を咲かせて、オレを見上げた。
兄の手から、そっとシンシアの胸元へ、そして小児科医であるオレの腕へと引き継がれた小さな小さな命。
抱き上げた我が子は、ワシントンの義父譲りの美しいブラウンヘアーを宿し、うっすらと開いた瞳は、シンシアと全く同じ、吸い込まれそうなほど澄んだグリーンアイだった。
「レン、レン……パパだよ……よく頑張ったな」
泥の中にあっても決して染まらず、強く、美しく大輪の花を咲かせるように。
二つのルーツに愛される我が子の小さな小さな5本の指が、オレの人差し指をぎゅっと握りしめた。
「櫻井、シンシア。おめでとう」
ドアが開き、お祝いに駆けつけてくれた須本先生が、いつもの穏やかな笑顔で分娩室に入ってきた。
その目には、我が事のように温かい涙が浮かんでいる。
「須本先生……!
産まれました、オレたちの息子です!」
「うん、素晴らしい産声だったよ」
須本先生がオレの肩をポンと力強く叩いてくれた。
その横で、兄も生まれたばかりの一希君を思い出したような顔をして、嬉しそうに微笑んでいた。
24歳の春、須本先生を追いかけてT医大病院に来たあの日。
まさか4年後の自分が、こんなにも愛しい金髪碧眼の妻と出会い、最高の兄と師匠に守られながら、世界一愛くるしい我が子をこの腕に抱きしめているなんて、想像もしなかった。
オレはシンシアの額にそっと、深い感謝を込めてキスを落とした。
これから始まる、最高に騒がしくて、最高にハッピーな3人家族の『父親』としての確かな一歩を、オレは力強く踏み出したのだった――