●TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 22●
「うう……重い。ジン、私、自分がまるで大きなスイカを抱えている気分よ」
東京のマンションのリビング。
私は臨月を迎え、すっかり大きくなったお腹をさすりながら、ソファにゆっくりと体を沈めた。
ジンの大きめのスウェットを借りて着ている私は、どこからどう見ても出産を間近に控えた一人の妊婦だった。
時計の針が深夜の零時を回る。
「シンシア、36歳の誕生日おめでとう。……はい、ノンカフェインの特別なハーブティーと、君が大好きなイチゴの特製タルトだよ」
キッチンから、28歳の私の最愛の年下の旦那様――ジンが、愛おしそうに目を細めながら、小さなキャンドルを灯したお皿を運んできた。
181センチの長身を屈めて私の隣に座る彼の左手首には、私が誕生日に贈った腕時計が静かに時を刻んでおり、薬指のプラチナの指輪が優しく輝いている。
『ありがとう、ジン。まさか36歳の誕生日を、日本で、あなたの妻として、そして母親になる直前に迎えるなんて、一年前の私には想像もつかなかった奇跡ね』
私が少し照れくさそうに英語で微笑むと、ジンは私の頬に優しいキスを落としてくれた。
高齢出産になる私の体と、お腹の中の子のリスクを誰よりも心配し、この十ヶ月間、完璧すぎるほどの体調管理で私を守り抜いてくれたジン。
彼の大きな手に包まれているだけで、出産の恐怖なんてどこかへ吹き飛んでしまう。
「さて、シンシア。いよいよ来月には産まれてくるけど……。そろそろ『名前』を、本気で白黒つけないとな」
ジンが真面目な顔をして、ソファのテーブルに何冊もの名前辞典と、私たちが書き溜めていたアイディアノートを広げた。
これが、私たちの最近の一番の難問(パズル)だった。
条件はただ一つ。
アメリカにいる私の両親でも発音しやすく、日本で育つにあたっても全く違和感のない、二つのルーツに愛される名前だ。
『そうなのよね。日本の伝統的な名前も素敵だけど、ワシントンのパパたちが舌を噛みそうな発音は避けたいわ。……例えば、Ken(ケン) や Ben(ベン) はアメリカでもベタすぎるし、Hiro(ヒロ) はジンのお兄さんの宙先生と被っちゃうものね』
「そうなんだよ。かと言って、完全にアメリカ寄りの名前だと、キラキラネームだって噂されかねないしな」
「うーん」と二人で頭を抱え、英語と日本語を交えてディスカッションを重ねる。
東大卒の彼の頭脳と、ハーバード卒の私の論理的思考をフル活用しているというのに、我が子の名付けとなると、どんな難治性症例の論文よりも答えを出すのが難しかった。
その時、ジンがふと、ノートの片隅に書いてあった一つの漢字に目を留めた。
「……なぁ、シンシア。『蓮(れん)』って、どうかな?」
「Ren...?」
私はその響きを、本場のネイティブの発音でそっと口の中で転がしてみた。
「そう。英語圏でも
Ren(レン)はすごくスマートで呼びやすい響きだし、男の子の名前として全く違和感がないだろ? 何より、日本における『蓮』という花はね――」
ジンは私の手を優しく握り締めながら、真っ直ぐな瞳でその意味を教えてくれた。
「泥の中にあっても、決して染まることなく、清らかで、強く、美しく大輪の花を咲かせるんだ。日本とアメリカ、二つのルーツを持ってこれから荒波を泳いでいくこの子が、どんな環境に置かれても自分を見失わず、強く美しく生きていってほしい。……オレは、そんな願いを込めたいんだ」
ジンのその言葉を聴いた瞬間、私の胸の奥に、言葉にできないほどの温かい感動が広がっていった。
『……素晴らしいわ、ジン。Ren……、レン。完璧なロジックであり、最高に美しいメッセージね。ワシントンのパパだって、これなら大喜びで“レン!”って呼べるわ』
私は溢れそうになる涙を堪えるように微笑み、お腹にそっと手を重ねた。
お腹の中のベイビーも、自分の名前が気に入ったのか、ポコンと力強く私のお腹を蹴って応えてくれた。
「よし、決まりだな。『レン(蓮)』だ」
ジンは愛おしそうに私の大きなお腹に耳を当て、「レン、パパだよ」と優しく語りかけている。
その姿は、一年前のあの生意気な年下ドクターではなく、世界一頼れる、世界一格好いい私の旦那様の顔だった。
36歳の誕生日の夜。
キャンドルの火を二人で静かに吹き消しながら、私は新しく刻まれる家族の未来に、深く、甘い幸福感を感じていた。
私はジンの温かい腕に抱かれながら、これから始まる最高の母親としての時間に、心の底からときめきを感じるのだった――