TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 2





ようやく始まった、憧れの須本先生に指導を受ける日々。

 

「須本先生、須本先生」と大型犬のように後ろを追いかけ回すオレの平和で幸せな毎日に、とんでもない嵐が吹き荒れることになったのは、先生が復職して数ヶ月が経った頃だった。

 

 

 

 

「――というわけで、今日から当科に加わることになったシンシア・スミス先生です。シンシナティ大学病院で俺のチームにいてくれた、非常に優秀なドクターだよ」

 

 

 

須本先生の隣で、誰もが目を丸くするような見事な金髪碧眼の白人美女

 

それがシンシア・スミス(35)だった。


彼女は自信に満ち溢れた笑みを浮かべると、流暢な英語で自己紹介を始めた。

 

 

はじめまして皆さん。シンシア・スミスです。ドクター・スモトとまた一緒に働くために、シンシナティ大学病院からやってきました』

 


医局の男たちが「おお…」と見惚れる中、彼女は胸を張ってこう言い放った。

 

 

『向こうでは、私がドクター・スモトの一番弟子でした』

 

 

その瞬間、オレの脳内ではブチリと何かが切れる音がした。

 

一番弟子、だと?

ふざけるな。

 

須本先生に憧れて東大病院を蹴り、恋人と別れ、先生が不在の3年間もこの病院で泥をすすりながら待っていたのは、このオレ、櫻井仁だ。

 

オレは一歩前に出ると、完璧な発音の英語で彼女の言葉を遮った。

 

 

『ようこそスミス先生。オレは櫻井仁。だけど一つ訂正させてほしい。須本先生の一番弟子が誰であるかという点において、君の認識は間違っている。先生を最も慕い、最も理解しているのはこのオレだ!』

 

シンシアは驚いたように細い眉を上げたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。


『あら、日本のエリート坊やが何か言ってるわね。ドクター・スモトのNEJMの論文の続きを生でサポートしたのは私よ? あなた、その時どこで何をしてたの?』


『……ッ!』

 

 

痛いところを突かれ、オレは奥歯を噛み締めた。

 

あの暗黒の3年間、オレはここで「何のためにT医科大に来たんだろ…」と愚痴をこぼしていたのだ。

 

だが、引き下がるわけにはいかない。

 

 

『過去は関係ない。今、先生の隣に立つのはオレだ!』

 

 

こうしてオレとシンシアの、文字通り「須本先生争奪戦」の火蓋が切って落とされた――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「須本先生! 次の患者さんの回診、オレがカルテを準備しておきました!」


「ドクター・スモト! そんな日本の古いカルテの整理、私がサクッとデジタルでシステム化しておいたわ。それよりこの症例のディスカッションをしましょう!」

 

「須本先生、コーヒー淹れました! ブラックで砂糖なしですよね」


「ドクター・スモト、アメリカ流の濃いエスプレッソよ。あなたの好みに合わせてあるわ」

 

 

診察室でも、処置室でも、オレたちの間にはバチバチと火花が散っていた。

 


ある日、重症の喘息発作で担ぎ込まれた男の子の処置に入った時、オレとシンシアは英語で激しく議論を交わした。

 

 

『ジン、ここはステロイドの投与量をもう少し増やすべきよ!』

『ダメだ、この子の既往歴を見てくれ。心機能への負荷を考えたら、まずは吸入薬の頻度を上げて様子を見るべきだ!』

『甘いわ!アメリカでは――

『ここは日本だ!目の前の患者をよく見ろ!』

 

 

「二人とも、そこまでだ」

 

低く、しかし威厳のある須本先生の声が響いた。

先生はオレたちの意見を瞬時に咀嚼すると、的確な指示を出した。

 

 

「吸入の頻度を上げつつ、ステロイドは櫻井の言う通りの投与量でいく。ただし、シンシアの懸念通り心モニターの監視を強化してくれ。……二人とも、議論をするのはいいが、患者の前で熱くなりすぎるな」

 

「「……はい」」

 

 

オレとシンシアは、悔しそうに視線を交わした。

 

やっぱり、須本先生には敵わない。

 

 

 

 

 

 

 

その日の夜。

医局で一人、今日の症例の振り返りをノートにまとめていたオレのデスクに、コト…と缶コーヒーが置かれた。

 

見上げると、そこには不機嫌そうな顔をしたシンシアがいた。

 

 

『……今日のあなたの判断、悪くなかったわ』


彼女はぶっきらぼうに英語で言った。

 

『何だよ、急に』

『悔しいけど、あなた、ちゃんと子供たちのことを見てるのね。ドクター・スモトが櫻井のカルテには愛があるって言っていた理由が、少し分かった気がしただけよ』

 

 

須本先生が、オレのことをそんな風に…?


胸の奥がじんわりと熱くなる。

 

 

『……君の指摘だって、的確だったよ。心機能のケアなんて、オレの視野から一瞬外れかけていた』

オレが素直に認めると、シンシアはふっと綺麗な笑みを浮かべ、オレのデスクに腰掛けた。

 

 

『でも、一番弟子の座は譲らないわよ、ジン』

『オレのセリフだ、シンシア。先生の隣は絶対に渡さない』

 

 

私たちは互いに視線で火花を散らしながらも、どこか認め合うような笑みを交わした。

 

 

 

「おや、二人で仲良く残業かい?」

 

 

ドアが開き、須本先生が優しい笑顔で入ってきた。

オレとシンシアは、弾かれたように立ち上がると、同時に先生の元へと駆け寄った。

 

 

「須本先生! この後のデータ整理、オレがやります!」

「ドクター・スモト! 私が論文の翻訳を手伝うわ!」

 

「二人ともありがとう。でも今日はもうお終い。櫻井、お兄さんが下で待ってるよ。シンシア、君も早く家に帰りなさい」

 

 

須本先生は困ったように笑いながら、オレたちの頭をポンポンと叩いた。

 

一番弟子の座をかけた戦いは、まだまだ終わりそうにない。

 

だけど、この最高のライバルであり同僚であるシンシアと競い合う日々が、オレをさらに強い小児科医にしてくれるような気がした――

 

 

 

 

 

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