●TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 17●
「――ほら、仁。お前時差ボケで手が震えてるからって、本籍地の漢字を間違えるなよ」
火曜日の診療後。
T医大病院の小児科医局で、兄がオレのデスクの上に広げられた一枚の『婚姻届』を覗き込みながら、これ以上ないほど意地悪そうに笑ってきた。
「うるさいな、兄さん。オレは東大の受験の時だって、こんなに緊張してペンを握ったことないんだよ」
オレは白衣のポケットの中で汗ばんだ右手を必死に落ち着かせようとしていた。
ワシントンD.C.の厳格な開業医である義父への、あの決死の結婚・妊娠報告フライトから帰国したのが、まさに昨日の月曜日。
つわりがすっかり落ち着いたシンシアを隣に、オレは医局のデスクに広げた緑色の用紙と向き合っていた。
『ジン、私の名前のカタカナ表記はこれで大丈夫?
“スミス・シンシア”……なんだか不思議なロジックね』
いつも通りお団子頭を鉄壁に結び、スクエアメガネをクイッと上げたシンシアが、少し照れくさそうに英語で覗き込んでくる。
「完璧だよ、シンシア。……よし、これでオレたちの記入欄は終わった。あとは、一番大切な『証人欄』に二人のサインをもらうだけだ」
オレが視線を向けた先――デスクの向こうで優雅にコーヒーを飲んでいた師匠・須本先生が、「ようやく俺の出番かな?」と、いつもの穏やかな笑顔で立ち上がった。
「はい。須本先生、そして慎一兄さん。オレたちの婚姻届の証人欄、お二人に書いていただきたくて」
「もちろん、喜んで書かせてもらうよ、櫻井」
須本先生はそう言うと、デスクの上に飾られている、明菜さんと子供達の写真立てを優しく見つめた。
そして、使い慣れた万年筆を手に取り、さらさらと見事な筆跡で『須本大樹』とサインしてくれたのだ。
「そういえば櫻井と愛ちゃんの婚姻届の証人欄は、俺と明菜が書いたんだったな」
須本先生のその言葉に、兄は顔を少しだけ照れくさそうに引き締めた。
兄と愛さんの出会いは須本夫妻の紹介によるものだ。
兄が須本先生に「誰か奥さんの友達を紹介してくれ」とお願いしたことから愛さんと出会い、二人の交際がスタートした。
それから3年半後、愛さんが大学を無事に卒業するのを頑なに待って、1年半前に二人はようやく入籍を果たしたのだ。
「ああ、あの時は須本がまだアメリカにいたから、わざわざ国際郵便でシンシナティまで婚姻届の書類を送って、お前ら夫婦に証人欄を書いて貰ったんだよな」
兄が懐かしそうに目を細める。
「そうだったな。日本から書類が届いた時、明菜が『愛ちゃんを泣かせたらアメリカから産科の医局に呪いをかけるからね!』って本気の顔でサインしていたよ。……ちなみに俺と明菜の時の証人欄は、一ノ瀬と千明さんに書いてもらったんだよ」
形成外科の一ノ瀬先生から須本先生へ。
そしてアメリカにいた須本夫妻へ書類を送り、海を越えて慎一兄さんへ。
病院を動かす『若手御三家』の天才ドクターたちが、それぞれの左手薬指のプラチナの指輪の誓いを、お互いにバトンを繋ぐようにして証明し合ってきた歴史。
その神聖なバトンの最後のアンカーとして、今、兄が達筆な筆跡で『櫻井慎一』と証人欄にサインを刻み込んだ。
「ほら、仁。……絶対に、シンシア先生を幸せにしろよ」
「……ああ。ありがとう、兄さん」
手渡された婚姻届には、三つの家族の歴史が刻まれているような気がした。
『ジン、これですべてコンプリートしたのね。……さあ、早く区役所へ行きましょう。私の大切な旦那様』
シンシアが白衣のポケットの中で、オレの左手とそっと指を絡めてきた。
お互いの薬指のプラチナが、ポケットの中で静かに、だけど熱く重なり合う。
「よし、行こうか、シンシア」
「おめでとう、櫻井、シンシア。役所へ出した後は、明日の午後の外来をいつもの2倍のスピードで回すための論文チェックを忘れないでおくれよ」
須本先生が楽しそうに笑い、兄も「ハワイの結婚式の準備もな」と、オレの肩を強く一叩きしてくれた。
T医大病院の夕暮れ時。
オレはシンシアの手を強く引き寄せ、世界一の幸福感と共に、一緒に区役所へと向かったのだった――