●TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 16●
「……ふぅ、ようやく落ち着いたな」
成田国際空港を離陸して約1時間。
ワシントンD.C.へと向かうボーイング777のビジネスクラス、ゆったりとしたシェル型のシートに体を預けながら、オレは小さく息を吐いた。
T医大病院の医局でシンシアが「うう……っ、気持ち悪い」とうずくまり、兄の診察室へ走ったあの日から数週間。
シンシアのつわりもようやく落ち着きを見せ始めたこのタイミングで、オレたちは彼女の両親が待つアメリカの首都へ向かうフライトに乗っていた。
『ジン、大丈夫?あなた、さっきからなんだか肩に力が入りすぎよ』
隣のシートから、聞き惚れるほど綺麗な英語が降ってくる。
見返すと、お団子頭をほどいてふわふわの金髪を肩に流したシンシアが、ハーブティーの入ったカップを片手に、悪戯っぽくメガネの奥の碧眼を細めていた。
『……そりゃ緊張するだろ。これから、世界のトップドクターである君の父親の元へ『お嬢さんを僕にください、子供もできました』って直談判しに行くんだぞ。もう命懸けだよ…』
オレが本音を漏らすと、シンシアはクスクスと声を上げて笑った。
『大丈夫よ、ジン。私のパパは確かに厳しい開業医だけど、あなたみたいに東大を出て、181pの長身で、おまけにドクター・スモトが認めた優秀な小児科医だもの。それに……私の初めてを奪って、あんなに情熱的に「一生を懸けて責任を取る」って言ってくれた男前だもの。パパもママも、一発であなたを気に入るわ』
「……シンシア、声が大きいって。誰かに聞かれたらどうするんだ」
昔の初夜の夜のセリフまで引っ張り出してオレをからかう彼女に、オレは顔を耳の裏まで真っ赤に染めてそっぽを向いた。
だけどそんなオレの左手首には、彼女が28歳の誕生日に贈ってくれた美しい腕時計が静かに時を刻んでおり、その秒針がオレの覚悟を何度も奮い立たせてくれた。
『皆さま、当機は間もなく巡航高度へと達します――』
機内アナウンスが流れ、ビジネスクラスの静かで贅沢な空間に、心地よいエンジン音が響く。
オレはそっと、シンシアの細い左手を引き寄せ、その薬指に嵌められた真新しいプラチナの指輪に触れた。
「ねえ、ジン」
シンシアがふっと優しい顔になり、オレの肩にそっと頭を預けてきた。
ジャスミンの甘い香りが、雲の上のプライベート空間に優しく広がる。
『私、35歳までずっと研究一筋で、日本に行くって決めた時も、パパたちに「キャリアを捨てるのか」って大反対されたの』
『そうだったんだ…』
『でもね、日本に来て、あなたに出会えて、こうして新しい命を授かって……私、自分の選択が100点満点の大正解だったって、今、心の底から思っているわ』
彼女の細い指が、俺の指をぎゅっと強く握り締めてくる。
『……俺もだよ、シンシア。今までの苦労は全てこの飛行機の中で君の隣に座って、新しい家族を迎えるために必要な最高の遠回りだったんだって、今なら胸を張って言える』
オレは彼女の手をさらに強く握り返し、窓の外に広がる、どこまでも続く真っ青な雲海を見つめた。
『よし、行こうか、ワシントンへ。オレたちの、本当の家族の始まりの場所へ』
『ええ、行きましょう。私の自慢の旦那様』
ビジネスクラスのシートを少しだけ深くリクライニングさせながら。
オレは愛する妻の温もりを全身で受け止め、海を越えたアメリカの空へ向かって、誇らしく、そして力強く、未来へのテイクオフを果たすのだった。
長いフライトを終え、ダレス国際空港からタクシーを走らせること数十分。
歴史を感じさせる美しい街並みの一角に、シンシアの実家である大きな邸宅があった。
『ようこそ、ジン。娘から話はたくさん聞いているよ』
出迎えてくれたシンシアの父親は、仕立てのいいスーツを着こなした、いかにも厳格そうな開業医だった。
そして母親は、上品な微笑みを浮かべた優しい専業主婦。
朝霞のオレの実家(開業医の親父と専業主婦のお袋)と驚くほど似た構成だが、やはり本場のアメリカン・ドクターを前にすると、勝手に背筋が伸びる。
リビングのソファに腰掛け、オレは真っ直ぐに義父の目を見つめた。
『お父さん、お母さん。突然の訪問になってしまい申し訳ありません。……ですが、どうしてもお二人に直接お伝えしたいことがあります。私、櫻井仁は、シンシアさんと結婚します。そして、彼女のお腹には、私たちの新しい命が宿っています』
緊張のあまり、リビングが一瞬静まり返ったように感じられた。
厳しい尋問を覚悟してオレがグッと奥歯を噛み締めた、その時――義父がふっと表情を緩めて、感慨深そうにオレを見た。
『いや、本当に驚いたよ。シンシアは35歳になるまで、ずっと大学病院の研究室にこもって論文ばかり書いているような子だったからね。男の影なんて全くなかった』
『ちょっと、パパ! 余計なこと言わないでよ』
シンシアが少し顔を赤くして抗議するが、義父は楽しそうに話を続けた。
『そんな娘が、突然「日本に行く!」と言い出した時は家族みんなでひっくり返ったんだ。それがまさか、こんなに短期間で君のような素晴らしい伴侶を見つけて、子供まで授かって帰ってくるなんて。……これはまさに、神様が決めた運命だな』
義父の口から出たのは、厳しい追及ではなく、温かい祝福の言葉だった。
あまりにウェルカムな雰囲気に、オレは拍子抜けすると同時に、胸を撫で下ろした。
『ありがとうございます。僕も、シンシアのような優秀で美しい女性と出会えたことは、人生最大の幸運だと思っています』
オレが誠実に答えると、今度はお母さんが嬉しそうに身を乗り出してきた。
『本当にシンシアの言う通りね。ドクター・スモトみたいに知的で素敵な日本人が、他にもいたのね。ジン、あなた本当にハンサムで、おまけにとても誠実そうだわ』
『そうでしょう?私の選んだ男だもの』
シンシアはいつもの勝ち気な笑みを浮かべつつも、どこか誇らしげにオレの腕に手を添えた。
『ジン、娘は気が強くて少し不器用なところもあるが、医療への情熱は本物だ。これからは二人で支え合って、良い家庭を築いてくれ。……それと、ドクター・スモトによろしく伝えておいてくれ。彼が日本に帰ったおかげで、最高の婿ができたからね』
義父が爽やかに笑いながら、大きな手でオレの肩を叩いた。
『はい。必ず伝えます。……そして、シンシアと、これから生まれてくる子供は、僕が一生を懸けて守ります』
オレがそう誓うと、シンシアはメガネの奥の碧眼を細め、そっとオレの手を握り返してきた。
ワシントンの心地よい風が吹き抜けるリビングで、オレは最愛の妻の温もりを強く感じながら、これからの最高の櫻井ファミリーの幕開けを、確かな幸福感とともに噛み締めたのだった――
「ただいま戻りました、須本先生。……て、兄さん。なんで当たり前のように小児科の医局にいるんだよ」
ワシントンD.C.への怒涛の結婚・妊娠報告フライトから帰国した翌日の月曜日。
時差ボケの残る体を白衣に包み、オレが医局のドアを開けると、そこにはデスクでコーヒーを飲む須本先生と、なぜか兄の姿があった。
「おかえり、仁。ワシントンの厳格なドクター・スミスに、東大卒のポーカーフェイスをへし折られずに済んだみたいだな」
兄がオレの肩を小突く。
「おかえり、櫻井。シンシアのご両親も喜んでくれただろう?」
須本先生がいつもの穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「はい、お二人とも色々とご配慮いただきありがとうございました。……で、これからの結婚式の時期や場所について、シンシアの両親とも相談してきたんですが」
オレがそう切り出すと、須本先生と兄は同時に顔を見合わせ、なんとも言えない「観念したような苦笑い」を浮かべた。
「あー…それなんだけどね、櫻井。……場所なら、もうとっくに『あいつら』の間で決定しているみたいだよ」
「は?決定って…?」
オレが首を傾げると、兄がスマホのLINEのトーク画面を目の前に突きつけてきた。
そこには、須本先生の奥さんの明菜さんと、兄の妻である愛さんとの、凄まじい熱量のトーク履歴が残っていた。
『明菜ちゃん!仁くんとシンシア先生、ワシントンへの挨拶大成功だったみたい!』
『本当!?良かった!ね、愛ちゃん、二人の結婚式の場所だけど……絶対にハワイだよね!だってワシントンと日本のちょうど真ん中だもん!』
『素敵、明菜ちゃん!私たち家族全員でハワイに大集合しちゃおう!』
「……うわぁ」
画面をスクロールしながら、オレはあまりの勢いに呆然とするしかなかった。
明菜さんと愛さんという『最強の親友・ママ友同盟』。
本人たちであるオレとシンシアがワシントンで頭を悩ませている間に、彼女たちは地球儀を広げて「日本の東京とアメリカのワシントンの真ん中はハワイ!」と、もの凄いスピードで外堀を完璧に埋めていたのだ。
『あら。さすが明菜と愛ね。完璧に論理的で素晴らしい提案じゃない』
医局のドアが開き、きっちりとしたお団子頭にスクエアメガネをクイッと上げたシンシアが、おかしそうに笑いながら入ってきた。
『ジン、私もハワイに一度行ってみたかったの。パパとママも、日本に来るよりはフライトも楽だしね。……ドクター・スモト、私たちは彼女たちの提案に乗るわ』
「あはは、やっぱりそうなるよね。明菜たちに逆らっても無駄なのは俺が一番よく知っているからね。よし、じゃあそうしようか、櫻井」
須本先生が楽しそうに笑い、オレも「はは、降伏です」と白衣のポケットに両手を突っ込んで笑うしかなかった。
最強の妻たちの笑顔の前には夫たちの意見なんて一瞬で無力化され、オレ達の結婚式は『ハワイ挙式』へと正式に決定したのだった――