●TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 15●
「うう……っ、気持ち悪い……」
月曜日の朝一番。
T医大病院の小児科医局で、いつものようにオレのデスクの横に立っていたシンシアが、突然、手で口を押さえてその場に激しくうずくまった。
その顔色は紙のように真っ白だ。
「おい、シンシア!?大丈夫か!?」
「ドクター・スミス、無理をしないで横になりなさい!」
オレと須本先生が慌てて駆け寄る。
最初は過酷な当直明けの急性胃腸炎か何かだと思った。
だが、シンシアはオレの白衣の袖をぎゅっと掴みながら、途切れ途切れの英語で呟いたのだ。
『……ジン。私、予定が……遅れてるの』
…………え?
その一言で、オレの脳内を凄まじい電流が駆け巡った。
28歳の誕生日に彼女から腕時計を贈られてから、ちょうど1ヶ月半。
オレは自分の心臓が破裂しそうになるのを感じながら、シンシアを抱きかかえるようにして、そのまま隣の産科へと走った。
向かった先は当然、兄・慎一の診察室だ。
「おめでとう、仁。シンシア先生、妊娠6週目だ。心拍もバッチリ確認できたよ」
エコーの画面を見つめながら、兄がこれ以上ないほど優しい顔で笑った。
モニターの片隅で、トクトクと力強く、健気に点滅している小さな光。
それを見た瞬間、オレの脳内コンピュータは完全にフリーズした。
(……オレ、父親になるのか)
兄はカルテを入力する手を止め、椅子をくるりと回転させると、真っ直ぐにオレを見つめてきた。
「で、どうするんだ?
仁」
兄のその問いかけは、産科医としてのものでもあり、何より、オレの覚悟を確かめるための『兄』としての鋭い視線だった。
医者としてはまだ半人前かもしれない。
だけど、一人の男としての覚悟は、人生のどの瞬間よりも固まっていた。
「どうするも何も、結婚するよ。彼女と、この子を幸せにしたいから」
オレが迷わずに言い切ると、カーテンの向こうから出てきたシンシアの瞳から、一筋の涙が零れ落ちるのをオレは見逃さなかった。
彼女の碧眼は見たこともないほど潤み、不安そうに泳いでいたけれど、オレの言葉を聞いて小さな肩の震えがスッと収まっていくのが分かった。
だけど、病院の中はあまりにも慌ただしい。
その日はお互いに残りの勤務を気合でこなし、ようやく二人きりの時間が訪れたのは、夜にオレのマンションの部屋に帰ってきてからのことだった。
静まり返ったリビング。
ソファの上で小さくなって膝を抱えているシンシアの髪は、お団子をほどいてふわふわの金髪が広がっている。
オレはキッチンで温かいノンカフェインのハーブティーを二つ淹れ、机に置くと、彼女の正面に真っ直ぐに向き合って座った。
オレの左手手首には、彼女が誕生日に贈ってくれたあの腕時計が、静かに、だけど力強く時を刻み続けている。
『……シンシア。改めて、ちゃんとオレの口から言わせてくれ』
彼女の目を見つめる。
いつも通りのポーカーフェイスなんてとっくに捨てていた。
『あの初めての朝、君は「ビザのために結婚してあげる」なんて言ったけど……オレはそんな理由で君を妻にするつもりはない』
「ジン……」
『君のお腹に宿った命は、オレたちにとって最高の奇跡だ。だから……オレと、本当の家族になってほしい。オレはまだ未熟な医者だけど……一生を懸けて、君と、これから生まれてくる子供を世界一幸せにすると誓うよ』
オレはポケットから、今日のために密かに用意していたケースを取り出した。
パカッと開いたそれを、彼女の前に差し出す。
中身はもちろん、美しく輝くダイヤが中央にあしらわれたプラチナの指輪だ――
『シンシア・スミス。オレと結婚してください』
オレが真っすぐにプロポーズを告げると、シンシアはしばらく言葉を失ったようにオレを見つめていた。
それから、堰を切ったように涙をボロボロと溢れさせながら、オレの胸の中へと飛び込んできた。
オレの腕で愛しい彼女の柔らかな体を強く、だけど壊れ物を扱うように優しく抱きしめる。
ジャスミンの甘い香りが、オレの胸いっぱいに広がった。
『……ばかジン。本当に生意気な年下ね……。でも、嬉しいわ。あなたのプロポーズ、合格よ』
彼女がオレの胸に顔を埋めたまま、嬉しそうに英語で答える。
オレはホッとして心の底から笑顔を咲かせると、彼女の震える細い薬指に、眩しいプラチナの指輪をそっと嵌めた。
シンシアは涙の滲んだ碧眼でその輝きを見つめ、少し驚いたようにオレを見上げた。
『……でもジン、いつの間に指輪なんて買ってたの?』
不思議そうに尋ねる彼女の頬に手を添えながら、オレは少し照れくさそうに微笑んだ。
『……君、前にオレたちの年齢差を気にして、ナースたちにヤキモチを焼いてただろ?だからオレ、君のそんな不安を一日でも早く全部消し去りたくて。いつ、どんなタイミングでも君にプロポーズできるように準備してたんだよ』
「ジン……っ」
オレの言葉に、シンシアはさらに激しく涙を溢れさせ、嬉しそうに英語で答えた。
『……本当に、どこまでも生意気で、カッコよすぎる年下ね。大合格よ、ダーリン』
『ありがとう、シンシア。愛してる…』
涙を拭った彼女の左手をぎゅっと握り締める。
オレたちの幸せな物語の、これが本当のスタートラインだ――
〜1ヶ月前〜
「須本先生、ちょっと……人には絶対に聞かれたくない相談があるんですが」
ある日の診療後、オレは須本先生の元へ周囲をキョロキョロと見回しながら近づいた。
東大卒のポーカーフェイスを維持しようとしているが、心臓はドラムのように激しく波打っている。
「櫻井、そんなに声を潜めて一体どうしたんだ?」
先生が不思議そうに飲んでいたコーヒーのカップを置く。
オレは意を決して、先生の耳元に顔を寄せた。
「あの……女性の指輪のサイズって、どうやって調べればいいんですか?」
「……え?」
一瞬、あのIQ180の天才統括ドクターが完全にフリーズした。
それから、すべてを察したように、これ以上ないほど嬉しそうに目を細めて声を上げて笑い出したのだ。
「あはは!櫻井、気が早いね。まだ付き合い始めたばかりだろう?」
「笑わないでください!シンシアが自分との年齢差を気にして、ナースたちにヤキモチを焼いてたの知ってるでしょ。オレ、あいつのそんな不安を一日でも早く、全部綺麗に消し去ってやりたいんです。だから、何が起きてもすぐにプロポーズできるように、今から指輪を準備しておきたくて……」
必死に捲し立てるオレを見て、須本先生は「なるほどね」と温かい目で頷いた。
しかし、その目にはまだからかうような光が灯っている。
それを見たオレは、思わず口を尖らせてツッコミを入れた。
「それに先生だって、奥さんと交際半年という異例のハイスピードで学生結婚したって聞きましたよ?先生だって、付き合ってすぐに指輪を準備してたんでしょ!?」
オレの鋭い逆襲に、須本先生は一瞬意表を突かれたように目を見開いた後、観念したように苦笑した。
「参ったな。……確かにその通りだよ、櫻井。俺も明菜と付き合って2ヶ月目には、指輪の準備をし始めたからね。人のことは言えないな」
先生は自分の過去を思い出して目元を和らげると、改めて真面目な顔になってアドバイスをくれた。
「シンシアのサイズならね、俺がアメリカにいた頃、彼女の医療用手袋のサイズを管理していたから大体分かるよ」
「本当ですか?!」
「彼女の指は細くて長いから、日本のサイズでいうと、おそらく7号か8号だね。確実を期すなら、7号を買っておいて、後からサイズ調整ができるブランドを選ぶといい」
「7号……。ありがとうございます、先生!」
「最高の指輪を選べよ、櫻井先生」
翌日の非番の午後。
オレは銀座にある名門のブライダルジュエリーショップにやってきた。
煌びやかなガラスケースの中に並ぶ、無数のプラチナの指輪。
「いらっしゃいませ。本日はエンゲージリングをお探しですか?」
「あ、はい」
店員に案内され、いくつかの指輪を見せてもらう。
その中で、オレの目に留まったのは、一本の美しいプラチナのリングだった。
中央に一粒の、最高純度のダイヤモンドが神聖に輝いている。
その濁りのない真っ直ぐな輝きを見た瞬間、あの本屋で初めて見たシンシアの遮るもののない碧眼が、そしてオレの前だけでヤキモチを焼いて涙を流した彼女の素顔が、鮮烈に脳裏に蘇った。
(これだ。これしか、シンシアには似合わない)
オレは迷わずその指輪を選んだ。
小さなベルベットのケースに収められたエンゲージリング。
オレは自室の引き出しに、いつか必要になるその時まで大事に仕舞ったのだった――