●TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 14●
「……ふぅ、終わった」
夜の21時半。
T医大病院の小児科医局で、オレは最後のカルテを閉じ、大きく伸びをした。
時計の針はとっくに夜の深い時間を指している。
今日は、オレが28歳になる誕生日。
けれど現実は過酷な病院勤務だ。
シンシアも午前の外来から午後のカンファレンス、さらに夕方の急患対応までフル回転で、オレたちは今日、医局ですれ違いざまに短い挨拶を英語で交わすことしかできていなかった。
(……まあ、医者なんてこんなもんだよな)
小さな溜息をつき、帰宅の準備を始めた。
28歳という一歩大人の男に近づいた記念すべき日。
夜しか会えない寂しさはあったけれど、オレの部屋には、鍵を開ければ最愛の女性が待っているという、それだけで胸の奥が熱くなるプレゼントがすでに用意されているのだ。
「ただいま、シンシア」
マンションのドアを開けると、リビングからふわりと、ジャスミンの甘い香りが漂ってきた。
明かりの灯るキッチンから、いつものお団子頭もスクエアメガネも外して、ふわふわの天然パーマの金髪を肩に下ろしたシンシアがエプロン姿で顔を出した。
『おかえり、ジン。28歳のお誕生日おめでとう』
彼女のその笑顔を見た瞬間、一日の疲れなんて文字通り一瞬で吹き飛んでいった。
テーブルの上には、彼女が漢字のレシピ本と格闘しながら作ってくれたと思われる、美味しそうな日本の家庭料理と、オレが好きな銘柄の冷えたワインが並んでいた。
『ごめんね、ジン。仕事が忙しくて、夜しか一緒にお祝いしてあげられなくて』
『何言ってるんだ。家に帰ってきて、君がこうして笑って待ってくれているだけで、オレにとっては世界一のプレゼントだよ』
オレは彼女の細い腰を引き寄せ、そのふわふわの金髪にそっとキスを落とした。
二人でワインのグラスを傾け、他愛のない今日の症例の話や、須本先生がまたオレたちの『ツヤツヤした顔』を見てからかってきたという話を英語で笑い合いながら、甘い時間がゆっくりと流れていく。
食事が一段落した頃、シンシアは少し頬を赤らめながら、小さな四角いボックスをオレの前に差し出してきた。
『これ、私からのプレゼントよ。……開けてみて』
オレがそっとリボンを解き、ケースを開けると――そこにはシンプルで洗練された、だけど圧倒的な気品を放つ美しい『腕時計』が収められていた。
『あなたが28歳になって、これから小児科医として、一人の男として、もっと素晴らしい時間を刻んでいけるように……と思って選んだの。気に入ってくれるかしら?』
スクエアメガネを外した彼女の深いグリーンアイが、恥ずかしそうに、だけど真っ直ぐに俺を見つめている。
世界のトップを走る彼女が、オレのために一生懸命選んでくれた腕時計。
胸の奥が猛烈な愛おしさで引き裂かれそうになり、オレは気が付けば、彼女の手首を優しく掴んで、そのままソファの上へと引き寄せていた。
「……シンシア。最高に嬉しい。……この時計、明日からの診察でも、プライベートでも、一生大切に身に付けるよ」
『ジン……っ』
腕時計をサイドテーブルに置くと、オレは彼女のシャツの襟元を引き寄せ、夢中でその唇を奪った。
夜の甘い時間の始まり。
お互いを狂おしいほどに求め合う恋人たちの濃厚な夜だ。
「先月、君は『28歳になったらもっと私を満足させる大人の男になってみせなさい』って言っただろ。……約束通り、今夜は朝までたっぷりと愛を証明してやるよ」
『……、ばかジン……。生意気な年下のくせに、今日だけはカッコいいじゃない……っ』
彼女の金髪が、シーツの上に散らばる。
27歳から28歳へと新しい時間を歩み始めたオレのすべてを、彼女の柔らかな体へと注ぎ込んでいく。
彼女の肌の温もりも、切なげな吐息も、オレの名前を呼ぶ甘い英語の声も、そのすべてが鮮明にオレの脳髄を痺れさせていく。
年の差の境界線なんて最初からなかったのだと証明するように、オレたちは何度も名前を呼び合い、重なり合い、一晩中狂ったように愛を囁き続けた――
翌朝。
新しくもらった腕時計の秒針が、静かに時を刻む音が聞こえる寝室。
カーテンの隙間から差し込む夏の朝の光の中で、オレは目を覚ました。
腕の中には、いつもの大きめの白シャツを一枚羽織っただけの、驚くほど柔らかくて愛らしいシンシアの無防備な姿。
パチ、と彼女の長い睫毛が揺れて、澄んだ瞳が俺を捉える。
昨夜の濃厚な時間を思い出したのだろう、彼女は一瞬で耳の裏まで真っ赤に染めて、フイッと顔を背けた。
『……おはよう、ジン。28歳最初の朝ね。……あなた昨夜は本当に……100点満点以上だったわ』
「おはよう、シンシア。君への愛の深さだけは、世界中の誰にも負けないからな」
オレは照れくさそうに笑う彼女の細い指を引き寄せ、その手の甲に優しく誓いのキスを落とした。
彼女もう一度強く抱きしめ、28歳の新しい時間を、この世界一綺麗な恋人とともに、どこまでも熱く走り続けていくことを誓うのだった――