●TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 13●〜シンシア視点〜
「ジン、次の患者の検査結果データよ。……それからナースステーションで、あなたがまた新しい当直用のスイーツを差し入れしたって聞いたけど?」
ある日の午後。
鉄壁のお団子頭にスクエアメガネをクイッと上げながら、私は極めて冷静なトーンで、デスクにいるジンに書類を差し出した。
『あ、それな。先週の当直でみんなに無理を言っちゃったから、そのお礼だよ。シンシアの分は、後でオレの部屋の冷蔵庫に最高に美味しいやつを入れてあるから』
ジンがいつもの人懐っこい笑顔を向けてきた。
病院の誰もが、私たちのことを「一番弟子」の座を巡ってバチバチとやり合う天敵だと思い込んでいる。
けれど、あの遊園地デートの夜を経て、私たちは秘密の恋人同士になった。
夜になれば、彼のマンションで抱きしめられ、甘い熱に溶かされる。
そんな幸福の中にいるはずなのに、最近の私の胸にはどうしても拭い去れない冷たい不安が居座っていた。
――それは、「8歳」という越えられない年齢の境界線。
私は今年で35歳。
対するジンはまだ27歳だ。
彼と並んで歩いている時、ふとすれ違う20代の若いナースたちの、ハリのある肌や無邪気な笑い声が嫌でも目に入ってしまう。
(あの子たちから見れば、私なんてただの行き遅れの、キツい年上ドクターよね……)
アメリカの最先端の現場で論理的思考を叩き込んできたはずなのに、ジンのことになると、どうしてこんなに自信のない不器用な女の子になってしまうのだろう。
私がナースステーションの前を通るたび、若い女の子たちに囲まれて「櫻井先生、カッコいい!」なんて言われているジンの姿を想像するだけで、猛烈なヤキモチと、それ以上の焦燥感が込み上げてくるのだ。
その日の夜。
ジンのマンションのリビングで、私はソファに膝を抱えたまま、彼が淹れてくれたハーブティーの湯気をじっと見つめていた。
お団子頭をほどいたふわふわの金髪が肩に流れる。
いつもなら彼の方から抱き寄せにくるのに、今日の私が余白のない暗い顔をしているのを見て、ジンは心配そうに私の正面にしゃがみ込んだ。
『……シンシア。どうしたんだよ、病院を出てからずっと元気ないだろ。オレ、また何か君の気に障ることしちゃった?』
ジンの真っ直ぐな瞳が、私の碧眼を捉える。
その優しさが返って私の頑なプライドを刺激して、私は思わず膝に顔を埋めたまま、小さな英語で本音を零してしまった。
『……何でもないわよ。ただ、自分が35歳なんだって、改めて実感しただけ』
『え?』
『あなた、まだ27歳でしょう? 病院のナースたちはみんな20代で若くて可愛いわ。私みたいな8歳も年上の、可愛げのない女医と一緒にいるより、あの子たちといた方が……』
「――はぁ!?
何言ってるんだよ、シンシア!」
ジンの大声に、私は驚いて顔を上げた。
見上げると、ジンは顔を耳の裏まで真っ赤に染めて、本気で憤慨したような顔で私の肩を掴んできた。
『何が8歳差だよ!来月オレ28になるし!そしたら7歳差だし!』
『差は縮まらないわよ、同じように私も歳を取るんだから。論理的に考えて――』
『論理なんてクソ喰らえだ!年の差なんて、オレの実家を見れば普通のことだって一発で分かるだろ!』
ジンは必死な形相のまま、東大卒の頭脳で我が家の身内のデータを爆速で叩き出してきた。
『一番上の慎一兄さんだって、13歳も年下の愛さんと結婚したんだぞ!?真ん中の兄貴だって、4つ年上の義姉さんと結婚して最高に幸せそうに暮らしてる!上下どっちに年の差があったって、うちの家族じゃそれが普通なんだよ!』
「ジン……」
捲し立てるような彼の必死の弁明に、私の唇が微かに戦慄く。
ジンは、私が歳の差を気にしてヤキモチを焼いていたこと、そして自分があの子たちに目移りするんじゃないかと怯えていたことを、すべて察して怒ってくれているのだ。
ジンはふっと表情を和らげると、掴んでいた私の肩から手を滑らせ、私の頬を包み込むようにして引き寄せた。
彼の体温が私の全身を包み込むように重なる。
『いいか、シンシア。オレは、君のその圧倒的な知性も、病院での厳しいドクターの姿も、そして今、オレの前だけで見せる歳の差を気にしてヤキモチを焼いてくれる可愛いところも……その全てに狂おしいほど恋をしてるんだ』
ジンの言葉が、私の耳元に、そして胸の奥に真っ直ぐに注ぎ込まれる。
『ナースの女の子たちなんて最初から目に入ってない。オレはシンシア以外考えられない。君じゃなきゃ、絶対にダメなんだよ。……だから、もうそんな悲しい顔して一人で抱え込まないでくれ』
「……バカジン」
私の瞳から、張り詰めていた不安の涙がポロポロと溢れ出した。
本当に、どこまでも生意気で、真っ直ぐで、私の心を一瞬で救ってしまう。
私は彼の白シャツの胸元をぎゅっと握り締めながら、自ら彼の唇へと飛び込んだ。
重なる唇から伝わってくるのは、深くて、私だけを求めてくれる一人の男の情熱。
ジンの長い腕が、私を二度と離さないという強さで強く、強く抱きしめてくれる。
『……分かったわよ。もう言わないわ。でも、来月28歳になったら、もっと私を満足させる大人の男になってみせなさい、ダーリン』
『任せて。でも今夜は今夜で、じっくりオレの愛を証明してやるからな』
クスクスと笑い合う、二人だけの甘い夜の始まり。
私は最愛の彼の腕の中で、8歳の境界線なんて最初からなかったのだと、深く、甘い幸福感の中で強く確信するのだった――