TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 12





Outcome of childhood acute lymphoblastic……

 

 

 

東大医学部の学生時代。

 

深夜の自室で、オレは分厚い英単語帳と世界最高峰の医学雑誌『NEJM』のコピーを前に、何度目かも分からない溜め息を吐いていた。

 

世間からは「東大卒のエリート」「身長181pのイケメン」などとスマートな印象を持たれがちだが、オレの英語力は完全なる血の滲むような努力の結晶だ。

 

あの若手医師と医学生の討論会で須本先生に出会い、小児科医を目指すと決めたあの日からオレの戦いは始まった。

 

須本先生の論文を完璧に読み解き、先生のような世界基準の医師になるためには、留学経験のないオレにとって「英語」という高い壁をどうしても超えなければならなかったのだ。

 

 

「留学経験がないなら、日本に居ながらにしてネイティブ以上の環境を作るしかない」

 

 

そう決意してからのオレのストイックさは、周囲が引くレベルだった。

東大の講義の合間も、通学の電車内も、スマートフォンの音声ガイダンスはすべて英語に変更。

 

小児医療に関する海外の最新論文を片っ端からプリントアウトし、知らない医学単語があればノートに書き殴って頭に叩き込んだ。

 

シャドーイングのために、自室で延々とネイティブの発音を真似て、口筋が痛くなるまで声を出し続けた。

 

 

凛と別れてT医大病院の3年目、須本先生が不在のやさぐれ期に着ていた、あの紺色のシンシナティ大学病院のパーカー。

 

あれを羽織って徹夜の当直をこなしていた夜も、オレの傍らにはいつも英語の専門書があった。

 

 

「先生のいる世界に、絶対に追いついてみせる」

 

 

その執念だけが、留学経験のないオレの英語力を「完璧なポーカーフェイス」の一部に仕立て上げたのだ。

 

 

 

 

 

だが、そんなオレの「独学の英語」は、あの35歳の天才女医――シンシア・スミスと出会ったことで、さらなる次元へと加速することになった。

 

 

「ジン、今の発音、ほんの少しだけ舌の使い方が不自然よ。アメリカのカンファレンスでそんな喋り方をしたら、1秒で論破されるわ」

 

 

晴れて恋人同士となった数週間後。

オレの部屋のデスクで、お団子頭をほどいたふわふわの金髪を揺らしながら、シンシアがオレの書いた英語のカルテを添削していた。

 

スクエアメガネの奥の碧眼は、恋人の顔から一瞬で「厳しい指導医」のそれに切り替わっている。

 

 

「手厳しいな、スミス先生。これでも東大時代から必死に海外の論文を読み漁ってきた自負はあるんだけど」


『論文を読む力と、目の前のネイティブと対等にディスカッションする力は別物よ。ほら、もう一度今のフレーズを繰り返して』

 

 

彼女の口から紡がれる、本場アメリカ人の美しくて、恐ろしいほど論理的なマシンガン英語。


恋人になったのだから、ベッドの中で甘い言葉を囁き合いたい気持ちはもちろんあった。

 

だけど、仕事でも絶対に彼女に負けたくないオレの「一番弟子」としてのプライドが、ここで激しく火を噴いた。

 

 

According to the patient's longitudinal data, the dosage should be...(患者の経過データに基づけば、投与量は……)」


『違うわ、longitudinal のアクセントはそこじゃない。もっとクリアに。……でも、医学的アプローチの視点は悪くないわよ、ダーリン』

 

 

厳しさの中に、ふっと混ぜられる、オレの心を狂わせる甘い英語の誉め言葉。


最高に贅沢で、最高に過酷な、世界一のプライドを懸けた「ネイティブ・レッスン」だ。

 

彼女と付き合い始めてからのオレの英語力の上達スピードは、自分でも恐ろしいほどだった。

ただの知識としての英語から、シンシアの思考を理解し、彼女と対等に渡り合うための「生きた武器」へと洗練されていく。

 

日常会話の細かなニュアンス、論文のキレ、そして何より、診察室で外国人の患者さんファミリーを迎えたときの包容力が、日を追うごとに劇的に進化していったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「櫻井、今日のアメリカ人の患者さんへの説明、本当に完璧だったね。シンシアのアメリカ流のロジックが、君の言葉に綺麗にミックスされていたよ」

 

 

ある日の診療後、医局で須本先生が、全てをお見通しの優しい笑顔でオレの肩を叩いた。

 

 

「ありがとうございます、須本先生。最高のプライベート・コーチが自宅にいますから」

 

 

オレは医局に入ってきたシンシアと小さく視線を交わして不敵に微笑んだ。

彼女は少し耳の裏を赤くしながらも、誇らしげにメガネの奥の碧眼を細めている。

 

 

学生時代に呪文を唱えるように必死に英単語を覚えていたあの日のオレに、教えてやりたい。


お前が必死にもがいて身につけたその英語は、将来、運命の相手となる女性を射止め、彼女と愛を語り合う為の鍵になるんだと。

 

 

 

「よし、シンシア。今日の夜のレッスンは、オレの気が済むまで付き合ってもらうからな」


『望むところよ、ジン。私の論理的思考を論破できるくらい、熱い英語を期待しているわ』

 

 

昼間は最高のライバルとして切磋琢磨し、夜は世界一綺麗な恋人の温もりの中でその言葉を深めていく。

留学経験がないからこそ手に入れた、オレたちだけの特別で、どこまでも甘いマッチングの呼吸は、明日からの無敵の診察室へ向かって更に熱く加速していくのだった――

 

 

 

 

 

NEXT(シンシア視点)