●TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 11●
「――櫻井、今日のお昼休み、廊下で凄い必死な顔してたね。何か大きなトラブルでもあったのかな?」
午後の診療が終わり、静まり返った小児科医局。
デスクでコーヒーを飲んでいた須本先生が、いつもの穏やかな笑顔のまま、だけど完全に面白がっている鋭い目をオレに向けてきた。
「え……!?い、いや、そんなことないです!ちょっと、午後の急患のシミュレーションを英語で熱く確認していただけです!」
オレは慌ててポーカーフェイスを取り繕った。
だが、先生は「ふーん」と楽しそうにカップを揺らす。
「そう?君がシンシアの後ろを、まるで捨てられた大型犬みたいな悲壮な顔をして追いかけていくのが見えたからね。『本当に誤解だ、オレが好きなのは君だけだ!』って、英語のキレがいつもの3倍くらい凄かったよ」
「う、うわあああ! 先生、そこまで聞いてたんですか!?」
思わず医局の真ん中で頭を抱えて絶叫してしまった。
昼休みの廊下で、ナースからの告白を秒速で断った直後、偶然それを目撃して激しいヤキモチを焼いたシンシアに、オレは必死に許しを請うていたのだ。
まさかそれを須本先生に見られていたなんて、恥ずかしさで医局の床にめり込みそうだった。
「ははは。大切な人を守るための言い訳の必死さとしては、合格点だよ櫻井。……でも、彼女の機嫌を直すのは、ここではなく家に戻ってからにしなさい。シンシア、君も耳の裏が真っ赤だよ」
『な……っ!? ド、ドクター・スモト、それは私のデータ解析には関係のない――』
いつの間にか医局に入ってきていたシンシアが、お団子頭を少し揺らしながら、分かりやすく真っ赤になってマシンガン英語を喉に詰まらせていた。
先生は「やれやれ」と困ったように笑いながら、自分のパソコンの画面に視線を戻した。
「幸せいっぱいのところを邪魔して悪かったね。今日の残りの書類は俺が預かるよ。早く彼女を連れて帰りなさい、櫻井先生」
「……っ、ありがとうございます、須本先生!」
オレはシンシアと小さく視線を交わし、先生に深く頭を下げて、逃げるように医局を飛び出した。
パチ、とリビングの明かりが灯る。
マンションの部屋に帰ってきて、オレは玄関のドアが閉まった瞬間――シンシアの細い手首をすっと掴んだ。
「……シンシア」
『何よ、ジン。病院でドクター・スモトにあんなにからかわれて、まだ反省が足りないの?』
お団子頭にスクエアメガネをクイッと上げた、いつものクールな女医姿の彼女。
だけど、その声は昼間の鋭さを失って、どこか甘く、ひどく熱を帯びているのが分かった。
「反省なら、今からたっぷり行動で示すよ。……昼間君が言っただろ?
『私の気が済むまで、ベッドの中で私だけにその愛の言葉を囁き続けなさい』って」
『……、……っ』
彼女の言葉を繰り返すと、シンシアは驚いたように綺麗な碧眼を見開いた。
オレは181pの体躯を活かして彼女の逃げ道を塞ぐように抱き寄せ、その知的なスクエアメガネをそっと指先で外した。
遮るもののなくなった彼女の深いグリーンアイが、恥ずかしさと熱い独占欲で激しく揺れている。
「……もう待たないからな。他の女の子に告白されているオレを見て、君がどれだけヤキモチを焼いてくれたか、嬉しくてたまらなかったんだ」
きっちり結い上げられていたお団子頭を指でほどくと、ふわふわの天然パーマの金髪がハラハラとオレの手の平に零れ落ち、彼女のジャスミンの甘い香りが一気に部屋中に広がった。
そのまま彼女を寝室のベッドへと押し倒す。
しらふの、恋人同士としての二度目の夜。
お酒の力を借りる必要なんてどこにもなかった。
『ジン……、バカジン……。本当に生意気ね……っ』
『生意気で結構。……シンシア、愛してる。オレが好きなのは、オレの心を全部奪っていったのは、世界中で君だけだ』
彼女の白い肌に何度も熱い唇を這わせ、耳元で、狂ったように愛の言葉を英語で囁き続ける。
シンシアは切なげな吐息を漏らしながら、オレの広い背中に夢中で爪を立て、その細い腕をオレの首に強く絡めてきた。
昼間のナースの告白なんて一瞬で吹き飛ぶくらい、オレたちは互いの肌の温もりを、鼓動を、世界のすべてを拒絶するようにして確かめ合った。
ヤキモチを焼いてくれた彼女への愛おしさが限界を突破して、オレは一晩中、彼女のすべてを貪るように何度も深く重なり合ったのだった――
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む夏の柔らかな朝の光に、俺は目を覚ました。
腕の中には、心地よい温もりと重み。
シーツの海に広がったふわふわの金髪の隙間から、まだ眠りの中にいるシンシアの美しい横顔が見える。
大きめの白シャツを一枚羽織っただけの彼女の無防備な姿は、病院のあの鉄壁のドクターとは違って、驚くほど柔らかくて愛らしかった。
パチ、とシンシアの長い睫毛が揺れて、澄んだグリーンアイがオレを捉える。
昨夜の濃厚な時間を思い出したのだろう、彼女は一瞬で耳の裏まで真っ赤に染めて、フイッと顔を背けた。
『……おはよう、ジン。あなた、昨夜は本当に……言った通り、24時間分くらいの愛の言葉を私に浴びせてきたわね』
『おはよう、シンシア。だから言っただろ』
オレは照れくさそうに笑う彼女の細い指を引き寄せ、その手の甲に優しく誓うようなキスを落とした。
まだ始まったばかりの、オレたちの秘密の恋人としての日常。
オレはシンシアをもう一度強く抱きしめ、須本先生にどれだけからかわれようとも、この手を絶対に離さないと、新しく始まる眩しい朝の光の中で静かに誓うのだった――