●THORN PRINCESS 20●
戸籍上では正式に夫婦になった僕ら。
しばらくは別居をするつもりだけど、でも産まれて落ち着いたら…ちゃんと一緒に住みたい。
紙の上だけの関係にはなりたくない。
そう思ってしまうのは僕が衝動ではなく、きちんと未来を見据えた上で結婚した証拠。
碁は疲れた。
もう僕が彼に敵うことはないだろうし、なら打っていても意味がない。
また同じように苦しむだけだ。
今は産休という名目だけど……このまま棋士なんか辞めちゃおうかな。
仕事と家庭の両立も難しそうだし、家事・育児に専念するのもいいかも。
碁は進藤に頑張ってもらおう。
両親のスタイルと同様、僕は夫を支えることだけに専念しよう――
「まあ!結婚?!」
病院の帰り、早速お互いの両親に入籍の旨を伝えてみた。
当然僕の母は大喜び。
父は内心複雑そうだけど……
「すみません先生。勝手に…」
「いや…。アキラを頼むよ」
「はい。絶対に幸せにします」
父と進藤の会話を横で聞いていた僕は、嬉しさと恥ずかしさで顔が真っ赤にしまった。
母がそっと僕に小声で耳打ちしてくる―。
「良かったわね」
「…うん」
本当に…本当に幸せにしてよね、進藤。
僕にはもう…キミしか頼れる人がいないんだから――
「塔矢…今日家に帰る?」
「え?」
進藤の実家にも報告しに行った帰り、タクシーの中で進藤に片手を強く握られてしまった。
まるで離れたくない、帰したくないと言わんばかりに――
「…しばらくは別居だって言っただろう?」
「今夜くらい一緒に居よう…?」
「………」
「一日だけでいいんだ。一日でいいから、二人だけの…新婚生活を送ってみたい」
「一日…だけ?」
「うん。あ…いや、そりゃあ…出来るならそのままずっと帰ってほしくないけど…」
「それは出来ない」
「…だよな」
進藤が残念そうに下を向いてしまった。
握った手を更に強く握り締めてくる――
「…キミが想像してる僕との新婚生活って…どんなの?」
「え?そりゃあ……」
改めてその様子を想像したのか、途端に顔を赤めてくる―。
「…食事はどっちが作ってる?」
「………オレ?」
「嘘を吐くな。キミの想像じゃあ食事も洗濯も全て僕がしてるんだろ」
「ご、ごめん。家事は全部オレがする約束だったのにな…」
「本当はする時間なんてないくせに、無理しなくていいよ」
「………」
現役の棋士、二冠のタイトルホルダーのスケジュールがどんなに緻密で忙しいかなんて…嫌ってほど僕は分かってる。
そんなキミに家事を全部押しつけるほど、僕は嫌な女じゃない。
むしろキミの想像通り全て僕がするのでいい。
キミはただ僕と子供の為に働いてて――
ガチャ
結局行き先を変更したタクシーが停まったのは、閑静な住宅街にある3階建ての高級マンション。
今進藤が住んでいる家…らしい。
「塔矢は来るの初めてだよな?」
「うん…。いつ引っ越ししたんだ?」
「もう1年くらいになるかな」
「…ふーん」
僕らがよく打ち合ってた頃は、棋院近くの安いワンルームマンションを借りてた進藤。
僕はその頃の彼しか知らない。
キミって…こんな趣味だった?
何だかまるで……緒方さんの部屋に来たみたい――
「コーヒー…はダメなんだっけ。オレンジでも飲む?」
「ありがとう…」
あまりに進藤らしくなくて、ついキョロキョロ見渡してしまう。
結構片付いてる…?
いや、片付いてるというよりは――
「…あんまり物がないな」
「うん。必要最低限だけ」
「埃も結構溜まってる…。掃除をしてないと言うよりは…住んでない感じ。生活感がない」
「はは、あたり。ほとんど寝にだけ帰って来てるようなもんだから…。一週間の半分は家にいないし」
「昔の父みたいだ…」
「塔矢先生?」
「うん…。昔は遠くで開催されるイベントの手伝いにもよく行ってたし、それに地方戦も多くて…ほとんど家にいなかった」
「へぇ…」
「家にはずっと母がいたから、掃除は行き届いてたけどね」
「ごめん。明日はオフだから掃除するよ」
「キミは昨日までタイトル戦だったから疲れてるだろう?寝てれば?掃除は僕がする」
「………」
驚いたように目を見開いた進藤。
手の平を僕は彼の前に突き出した――
「え?なに…?」
「合鍵をくれ。キミがいない時でも暇を見つけて掃除に来たいし」
「塔矢…」
「いいよ、進藤」
「え?」
「キミが想像してるような新婚生活をしてもいいよ。食事も洗濯も全部僕がする」
「え…、でもオレがする約束じゃあ…」
「キミはそんな時間ないだろう?これから僕と子供を養っていかなくちゃないんだから。キミが外で頑張ってくれたら、僕が内を守るよ。母みたいに夫を影で支える存在になる」
「……ちょっと待て」
「何か不満?」
「内って…影って…何言ってんだよオマエ。オマエだって棋士じゃん!また落ち着いたら復帰…するんだろ?!」
「………しない」
もう碁界には戻らない。
もう棋士なんか懲り懲りだ――
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