●MEIJIN 68●〜佐為視点〜
目の前で投了する母の姿を、僕は信じられない気持ちで見つめてい
母に勝った。
勝ってしまった。
それはつまり――奪取してしまったということだ――
僕は主催新聞社のインタビューが始まっても、ずっと気持ちを押し
あくまで淡々と、一局の感想と、シリーズ全体の感想を述べる。
正直なところ、途中負けるかもしれないと何度も思った。
その度に何度も精菜の顔が浮かんだ。
負けたらやっぱりガッカリさせてしまうだろうか。
いや、精菜なら優しく慰めてくれるかもしれない。
第1局の時も、それはそれで良かったものだ。
でも…、それ以上に彼女に喜んでほしいという気持ちが勝ってくる
喜ばせたい。
もちろん、自分の為にもだ。
幼い頃からこの舞台に来ることがずっと夢だった。
両親とタイトル戦で戦うこと、そして彼らからタイトルを奪取する
いくら碁が好きでも、楽しいことばかりじゃなかった。
辛いことのほうが多い時だってあった。
それでもやって来れたのは、この夢のお陰だろう。
「奪取した今の気持ちを聞かせて下さい」
記者にそう問われ…、僕は長考した。
とても一言で言い表せるものではなかったからだ。
「とても嬉しく思います。でもまだ実感が湧かないですね…」
と模範解答をとりあえずしておく。
「この勝利を誰に一番に伝えたいですか?」
嫌な質問だ。
僕が失言するとでも思ってるのだろうか。
そんなもの、精菜に決まっている。
いつか、関係を公に出来た時のお楽しみに、その回答は取っておく
「師匠である父に伝えたいですね…」
大盤解説会場に移動した僕は、倉田先生に「おめでとう!」とバシ
「ありがとうございます…」
「じゃ、先に一局の感想でも聞いてみようかな」
さっきの記者と同じ質問をされ、同じように答える。
母も同じように答えていた。
「で?どう?塔矢。息子にタイトル取られた気持ちは?」
直球で母に聞く倉田先生。
もう少しオブラートに包んであげて…、と誰もが思ったことだろう
「…悔しいですね」
ウンウンと倉田先生が頷く。
「でも…、本望ですね。息子に、佐為に、このタイトルを取られた
と――母がわざわざこっちを向いて続けた。
(お母さん……)
「でもまた来年、この舞台に帰って来れるよう精進したいと思いま
大きな拍手で会場が包まれる。
対局室へ戻り、感想戦を30分ほど行う。
その後名人としての初揮毫を書き、記者会見へと向かう。
更に関係者だけの夕食会ももちろんあるが、僕は辞退させて貰った
ルームサービスを手早くいただきながら、戻って来た携帯の電源を
鳴り止まない通知音。
全て知り合いからのおめでとうメッセージだ。
父からも。
彩からも。
京田さんや西条からも。
そして――精菜からも――
『おめでとう』と一言だけ……
僕は精菜にだけ『ありがとう』と返し、更に『今どこ?』とLIN
ちょっと緊張の瞬間だ。
『家』とかで返って来たらどうしよう…。
再び通知が鳴り、『東棟301号室』と――
僕は急いでシャワーを浴びた。
さぁ、ここからが問題だ。
僕が泊まってるのは対局室に近い離れの部屋だ。
ここから精菜がいる東棟には渡り廊下やロビーなど、関係者や記者
もうここは開き直って堂々と行ってみるか。
大浴場にでも行くフリをして。
「おめでとうございます」
すれ違う人、一人一人全員から僕は祝福を受けた。
え?今このホテルにいるのってもしかして関係者オンリー?ってぐらい全員から話しかけられ
(後で知ったことだが、この名人戦中は一般の客は宿泊出来なかっ
僕が精菜の部屋の予約が取れたのも、もちろん関係者から手を回し
明らかにどちらに行かれるんですか?的な目で見られたが、もう知
僕は精菜のいる東棟3階へと急いだ――
ピンポーン
きょろきょろ周りを確認し、精菜がドアを開けてくれた瞬間に僕は
「佐為…?」
「ごめん。ちょっとこのホテル、思った以上に関係者が多くて…」
プッと笑われる。
「そりゃそうだよ…」
見つめ合った僕ら。
精菜が改めて祝福してくれる。
「おめでとう…、佐為」
「……ありがとう」
途端に自分の中から何かが溢れた気がした。
「あれ…?」
奪取してからこの2時間で数え切れないくらいの祝福をされたけど
でも…、精菜に言われた途端――急に、自分でも不思議なくらいに
奪取出来たと。
夢が叶ったのだと。
その喜びが勝手に眼から流れ落ちる――
「佐為…、頑張ったね。お疲れ様…」
「精菜…」
こんな情けない姿、彼女に見せたいわけじゃないのに。
でも、止まらなかった。
拭っても拭っても溢れてくる涙。
「私の胸で泣いていいよ…」
と優しく抱き締められる――
「本当に…、おめでとう佐為…」
「うん……ありがとう」
「プレゼントは何がいい?」
「…精菜がいい」
「ふふ…、いいよ」
今夜は特別だからね。
いくらでもいいよ、と耳元で囁かれたのだった――