●MEIJIN 67●〜精菜視点〜
新宿駅に到着した私は、駅弁を購入してから特急に乗り込んだ。
甲府には1時間半程度で着く予定だ。
駅弁を食べながら、再開したばかりの対局室の様子を見てみる。
昼休憩を挟んで44分の長考の後に佐為が放った手は――12の十
これには私のお箸も止まる。
(12の十四…?)
迫力を全く感じない一手。
普通の棋士なら、それでも大事をとって12の八と備えるだろう。
黒優位のままヨセ勝負に進めるからだ。
でも名人はシノぐ自信があるのだろう。
緩まず11の十六、14の十六と2子を制し、大石が死ななければ
選ぶべくして最強かつ豪胆な道を歩む。
これこそが塔矢名人だ。
それに対して佐為はひたすらじっくり戦った。
並大抵の胆力ではない。
「でもそろそろ襲いかからないと手遅れになるよ」
倉田天元が進言する。
そんな中で次に佐為が放ったのは17の十八――今度は42分熟考
「これは驚いたね。名人も中央を意識してただろうし」
「ひゃー明後日の右下と来たらシビれますね!」
「でも名人にシビれてる時間はないよ」
16の十八で対抗した名人の残り時間は50分となっていた。
それなのに今度は17の二と右上に放たれる。
もう予想外過ぎて名人も口元を手で覆っていた。
(佐為…)
「塔矢は1目単位の精密な判断が要求されるヨセ勝負にはしたくな
名人は現在35歳だ。
碁の世界で35歳は決して若くない。
ヨセ勝負にわずかな狂いが生じてくる歳だと倉田天元が語る。
でも名人には険しい局面で最善手を見極める人並み外れた嗅覚があ
「今一番計算能力に優れてる17歳が相手だからね。オレでもそっち
18の七から11手ほど私も計算する。
これなら地合いで名人の勝ちだ。
でも16の二以降はかなり細かいのだ。
もう時間がない中、名人はその道を選ばなかった。
そして佐為が12の十へ放つ――迫り方が絶妙な一手だ。
『次は甲府〜。お降りのお客様は…』
甲府駅に着き、局面を気にしながら私は慌てて降りた。
タクシーで対局会場のホテルへ着き、先にチェックインする。
「いらっしゃいませ」
佐為が私の為に取ってくれた部屋。
こんな目の離せない局面だから、エントランスホールに関係者は誰
当然だろう。
私だって早く中継の続きが見たい。
鍵を受け取って、急いで部屋に向かった。
予想外にも和洋室だった。
ベッドが2つあり、庭園が望める窓からは今佐為が戦ってる離れも
(佐為…、頑張って)
再び中継をつける。
「名人は不意を突かれたね。順番が違えば11の十八はいい手だっ
でもそれが虎に穴だとは知らずに打ってしまった。
「十段の17の十八は決断の一手ですね」
「道を一本に絞ったからね。12の九から取り掛けに行く気だな」
名人が持ち時間を使い切り、ついに秒読みになる。
一方佐為はまだ30分残してる。
大石の生死が防衛か、奪取か、命運を分けることになる。
「お。今から記録も二人体制だな」
午後5時半を回り、対局室の記録係が増える。
今までは1時間半置きに交代していたのだが、秒読みが始まった最終
中継サイトの同接数も5万人を超える。
コメント欄を開くと、滝の様にコメントが流れていた。
大半が佐為の応援。
AIの評価値も佐為に傾き出して、観客もヒートアップしていた。
2日目午後からの名人の苦闘。
見る者に悲痛な感動を与えたことだろう。
名人が天を仰いだ。
ひとつのかたちとして結実する瞬間だ。
脈のない状況から信じがたい粘りでコウ争いに持ち込んだ佐為。
彼が放った最終手――3の十。
その後進めていくと無情にもコウ材が足りなくて大石が死ぬ。
午後7時10分――塔矢アキラ名人が投了した。
「負けました…」
8年ぶりに新名人が誕生した瞬間だ――