●MEIJIN 47●〜彩視点〜
「お兄ちゃん、何してるの?」
私がプロ棋士になって初めて迎えた小学6年生の夏休み。
精菜を連れて家に帰ると、お兄ちゃんがダイニングのテーブルで習
「中学校でも夏休みの宿題に習字あるの?」
「いや、ちょっと揮毫の練習中…」
「揮毫?」
10月の連休にイベント出場が決まったお兄ちゃん。
参加棋士全員の色紙を物販で販売するらしく、その為の練習をして
ちょっと覗かせて貰うと、その上手さに驚く。
「ちょ、お兄ちゃん別に練習なんて必要ないでしょこれ!めっちゃ
明子おばあちゃんから物心がつく前から硬筆も毛筆も習っていた兄
流石というか何というか……
「キレイ…」
精菜も横でキラキラした目で、うっとりと見つめていた。
「お兄ちゃん、精菜に何か書いてあげたら?」
「え?」
「精菜も欲しいよね?お兄ちゃんの揮毫」
コクンと彼女が頷く。
「別にいいけど…。じゃあせっかくだからアレに書くか」
お兄ちゃんがウォークインクローゼットの引き出しから、一本の扇
あれは無地のやつだ。
昔お母さんが何かのイベント用に使った残り。
「何て書いてほしい?」
精菜にそう尋ねたお兄ちゃん。
精菜は少し考えた後、「佐為の夢を書いて」と答えた。
「夢、ね」
お兄ちゃんがサラサラと書いたその文字はまさに『夢』そのもの。
「お兄ちゃん…、精菜が言ったのはそういうことじゃないと思うよ
「え?」
「お兄ちゃんの夢を書いてほしかったんだよ。タイトル奪取〜とか
「あ…、ごめん。書き直すよ」
「ううん。それでいい。何か佐為の夢がいっぱい詰まってるみたい
「そう?じゃあ名前も入れておくな」
「うん」
お兄ちゃんが夢の横に署名する。
『初段 進藤佐為』
「ありがとう…、佐為。大事にするね。いつか私もタイトル戦に出
「うん。精菜も頑張って」
結局10月のイベント前にお兄ちゃんは二段に上がってしまったか
(精菜が握ってる扇子…、きっとあの時のだ)
女流本因坊戦・第2局。
私は学校の休み時間に対局の様子を配信で見守っていた。
挑戦者の緒方精菜の左手には珍しく扇子が握られている。
コメント欄も気付いたようだった。
『誰の扇子かな?』
『やっぱり緒方先生のじゃない?』
『意外に彼氏の扇子かもよw』
彼氏の扇子――当たりだ。
将来鑑定団とかに出したらすごい金額が付くであろうレア中のレア
いつか私もタイトル戦に出れたら――とあの時彼女は言った。
でも今までのタイトル戦に彼女はそれを使用して来なかった。
どうして今回だけわざわざ持ってきたのか。
それはやはり、正に今、お兄ちゃんの『夢』が叶ってる瞬間だから
私は携帯からタブレットに目を移した。
精菜の対局と同日同時刻行われている王座戦・第1局。
お兄ちゃんが師匠であるお父さんと向かい合って座っている。
もちろん名人戦でもお母さんと戦っているから、両親とタイトル戦
でもきっとお兄ちゃんにとって、師匠のお父さんと戦うこのタイト
(だから前夜祭であんなことを言ったんだろう…)
いつも通り無難な意気込みにすることも出来たはずなのに。
お兄ちゃんはお父さんとの思い出と感謝の気持ちを綴っていたのだ
それはまるで結婚式で花嫁が両親にあてる手紙みたいに――
「中学2年生の1月、僕が公式戦で初めて負けた相手が父でした」
全力でぶつかって、それでも全然敵わなかったあの時の悔しさは今
これが僕と父の現時点での差だと実感させられたと……兄はゆっく
棋院でも散々感想戦を行ったくせに、家に帰ってからもずっと和室
「僕が納得するまで、何時間も検討に付き合ってくれた父には本当
その後も幾度となく公式戦で当たることになる二人だけど、お兄ち
「初めて勝利したあの十段戦の準決勝の夜は…、実は家に帰ってか
やっと父に勝てた喜び。
兄にとって大きな壁を乗り越えた瞬間だったらしい。
その後の決勝でお母さんに勝ち、五番勝負で緒方先生に勝利した兄
そして今、また名人と王座という二つのタイトルを巡って両親に挑
世間からの期待は重く、プレッシャーになってることだろう。
「でもこれからも長く続く僕の棋士人生の中で、両親とダブルタイ
全力で挑んで、悔いが残らない戦いにしたい。
「師匠である父とこの舞台で戦える喜びを胸に、明日からの対局に
最後に兄はそう締めくくった。
もちろん拍手喝采だ。
お父さんにとってはとんだ盤外戦だろう。
そんなお兄ちゃんの『夢』が詰まった扇子を握って、精菜は今お母
今まで一度もお母さんに勝ったことのない彼女だけど、お兄ちゃん
(精菜…、頑張って)
次の授業の先生が教室に入ってきて、仕方なく私は配信を閉じた。
女流本因坊戦は持ち時間4時間。
王座戦は持ち時間3時間。
どっちが先に決着つくのか分からないけど、最後まで見守ろうと思
(皆…、頑張って…)