●MEIJIN 20●〜佐為視点〜
「おはよう進藤君。今日はよろしく」
「おはようございます。よろしくお願いします」
九州での名人戦を終えて帰って来た4日後、僕は新たな大一番を迎
王座戦・本戦トーナメント決勝――挑戦者決定戦だ。
棋院のエレベーター前でバッタリ対戦相手の窪田さんに会い、一緒
「この前の第2局は完勝だったね」
と名人戦の感想を話しかけてきた。
「最後まで気が抜けなかったですが…。少しの読み抜けが命取りに
「そうだよなぁ。俺も散々痛い目遭ってきたもん」
母との勝率は僕はだいたい五分だけど、窪田さんはおそらく3割ほ
今年36歳になる母だが、まだまだ女王として君臨しそうだ。
「でも緒方さんも女流の中じゃ大概やるよな」
「精菜ですか?」
「うん。この前の碁聖戦の予選、同期の東が相手だったんだけど、
「…そうでしたね」
「女流棋戦も今はほぼほぼ挑戦者だもんな。塔矢名人と一緒で女流
「…そうですね」
僕と一緒にプロ入りして早4年半。
精菜の勝ちっぷりには目を見張るものがある。
女流棋戦ではほぼ負けなしで、今では毎回挑戦していた。
一般棋戦でも最終予選にまで進んでるものも多い。
確実にあと数年でリーグ入りしてくると思う。
「緒方さんとはよく打ってるの?」
「え?」
「彼女なんだろ?」
「…まぁ」
プロ棋士の間では有名な僕らの関係。
よく打ってるか…と聞かれれば、そうでもない。
「今はごくたまに…、なぐらいですね」
「ふぅん…まぁ二人とも忙しいもんな。会えた時ぐらい、他のコト
……意味深な言い方だ。
おそらく僕が思ってるそのままの意味なんだろうけど。
窪田碁聖は現在24歳。
僕と違って女性遍歴も長く多く、そっちの面では恐らく全然敵わな
「…でも他の女の子とはプライベートでは打たないって、本当?」
「え…?」
窪田さんが僕の目を見て聞いてくる。
口許は笑ってるけど、全然笑ってない目で――
「ちょっと小耳に挟んでね。進藤十段はプライベートでは女子と打
「…線引はしてるつもりです」
「ふぅん…まぁいいけど。でも俺から言わせてもらえれば、何様?って感
「……」
「まぁ十段様なんだろうけど」
やけに棘のある言い方をしてくる窪田さん。
空気が一気に張り詰める。
「じゃ、今日はよろしく」
対局室前に着き、窪田さんは先に入っていった。
そして上座に座る。
タイトルホルダー同士の序列は、どのタイトルを持ってるかで決ま
十段より碁聖が上の為、彼が上座だ。
(勝ちたい…)
純粋にそう思った。
勝って、いつか彼より上座に座ってやりたい。
何が窪田さんをそんなにイラつかせてるのかは分からないけど、今
「「お願いします」」
16の四、4の十六、17の十六、3に四……
窪田さんと打つのはこれで何回目だろう。
中学3年の時、天元戦本戦で当たって以来数多く公式戦で戦ってきた。
相変わらず要所要所で古い定石を挟んでくる窪田さん。
彼と打つ時はいつも、過去の布陣への勉強量を試されてる気分になる
(3の十一で3の五と手を入れれば無難だけど……戦いになれば
さっきのエレベーターでの会話。
『他の女の子とはプライベートでは打たないって、本当?』
『家族以外で打って貰えるのは、彼女だけなんだって?』
どうして窪田さんが知ってるのだろう。
本当にそんな噂が広がってるのだろうか。
この会話で一番思い当たるのは――同じクラスの内海さくらだ。
プロ試験に受かった直後だっただろうか。
海王囲碁部の部室で一局打つことになって、その時に
「たまに私とも打ってくれないかな?」
と言ってきた内海さんに、僕は
「彼女でもないのに特別扱いは出来ない」
と拒否した。
つい半年前も、放課後西条と内海さんが対局中、
「進藤も打ったら?」
と誘われたのだけど、精菜の為に僕は
「やめておく」
と断ったのだった。
(内海さんが窪田さんと接点があるとは思えないけど……)
9の八、8の九、9の二、10の四……
この窪田さんが打った10の五……こう打たれるとこっちは左辺で仕掛けるしかない。
3の十三からコウ形にしながら上方の白を睨んでいく。
3の十二のコウ取りに、僕はノータイムで10の九を返した。
「…へぇ」
小声で窪田さんが驚いたような声を出してくる。
こっちは上辺の白を取りに行くしかない。
もう生きるか死ぬかだ――
「休憩です」
記録係から声がかかり、僕は窪田さんより先に席を立った。
微動だにしない彼。
王座戦は持ち時間3時間だけど、このままいくと早々に決着するかもしれない。
何を考えてるんだろう。
現段階では僕の方がかなり打ちやすい。
(果たしてどこまで耐えてくるかな…)
「お疲れ。進藤君」
「お疲れ様です」
休憩室に入ると、京田さんが手を上げて来た。
今日は彼も隣の行雲の間で対局中だ。
事前に注文してあった店屋物を一緒に食べることにする。
もちろん、現在の対局内容を棋士同士で話すのはご法度なので、碁
「…そういえば京田さんは聞いたことありますか?僕がプライベートでは女子と打
「何それ?」
京田さんが初耳という顔をした。
彼が知らないということは、噂が広がってるわけではなさそうだ。
「進藤君に挑んで来る女子がいるってこと?怖いもの知らずだな…」
「挑んで来るというか…、囲碁を教えてほしいっていうニュアンス
「ああ…、なるほど。それ口実に近付いてくるわけか。モテる男は
「だから打たないって決めてるんです」
「緒方さんの為にね」
「はい」
精菜と付き合い始めたその日から、自分に課した制約。
家族以外の女の人とプライベートでは打たない。
碁は二人で打つものだから。
どうしても二人きりの時間、二人だけの空間になってしまうものだ
精菜以外の女性と打って、彼女を不安にさせない為だ――
「そういえば窪田さん、新しい彼女が出来たみたいだよ」
「え?そうなんですか?」
「女子アナとは別れたらしい」
「へぇ…、まぁすぐに新しい恋人が出来るところは流石窪田さんで
「今度は年下の女流って聞いたけど…、誰だろうね?」
「年下の女流……ですか」
そういう僕も京田さんも『年下の女流』と付き合っている。
「京田さんは彩とよく打ってるんですか?」
「もちろん。毎日打ってるね」
「…彩のやつ、本当に毎日京田さんちに入り浸ってるんですか?」
「はは…、先生には内緒な」
今日も放課後来ると思う、と京田さんが頬を掻く。
精菜は今日は十段戦の最終予選で大阪だ。
毎日のように会っている二人を、ちょっと羨ましく思う僕がいた――