●MAIN BATTLE 30●





11月19日、土曜日。

僕はこの一ヶ月半待ちわびた運命の日を迎えた。



「おはよう、佐為」

「おはよう」


一階に降りていくと、今日はオフの母が朝御飯の準備をしていた。

母が朝食を担当する日はいつも和食になる。

白ご飯にお味噌汁、焼き魚に玉子焼きなど、母の実家でも出される定番メニューである。

反対に父が作る朝食は完全に洋食だ。

目玉焼きやスクランブルエッグ等の卵メニューが一つと、ソーセージかベーコン等の肉系が必ず一つ。

あとはパンとサラダとヨーグルトだ。

僕はどっちも大好きだったりする。

(両親がいない時は結構適当になるもんなぁ…)



「おはよー」

朝食が出来上がった頃に彩も起きてきた。


「今日で最後かぁ〜」

と言いながら背伸びをしている。


「お兄ちゃんついに京田さんとだね」

「うん」

「今日、京田さんと帰ってくるんでしょ?入門テストあるもんね」

「うん…」


朝食の準備を終えた母が、僕の前に座る。

「ヒカルは14時過ぎに羽田に着く便で帰って来るそうだよ」

さっき電話があったと母が教えてくれる。

ということは、16時ぐらいには家に帰って来るだろう。

僕らの帰宅もおそらく同じ頃だ。


「お父さん疲れてないかな?」

「昨日勝ったし大丈夫じゃないか?秀英と一局打ってから帰るからって、さっきの電話では元気そうだったよ」

「ならいいけど…」


韓国のプロ棋士、洪秀英九段は父がプロになった頃から交流が続いている外国の棋士の一人だ。

日本語がかなり流暢で、国際棋戦で来日した時に家にも何度か来ことがある。

日中韓英と4ヵ国語を操る母と違って、カタカナ英語ぐらいしか話せない父にとって、彼は韓国に行った時のライフラインなのである。


「秀英も去年JTBC杯優勝して以来調子がいいみたいだし、ヒカルも久しぶりに打つのを楽しみにしてたみたいだよ」

「そうなんだね。今回は高永夏九段とは会わないの?」

「ふふ、次の対戦相手に会うわけがないよ」

「あ、そうか…」


昨日のLGの準々決勝で、無事勝利した父。

同じく中国の陳九段に勝った高永夏九段と次の準決勝であたることが決まった。

ただでさえ犬猿の仲の二人だ。

プライベートで会うわけがないらしい。

(僕は高永夏九段の打ち方も結構好きなんだけどな…)













「行ってきます」

「行ってきまーす!」


いつものように彩と棋院に出発する。

でもプロ試験の為に一緒に向かうのは今日で最後だ。

次はいつ一緒に行くんだろう。


妹はここまで11勝3敗。

12勝2敗の精菜が今日順調に勝てば、残念ながらこのプロ試験は不合格となる。

でも彩は既に先を見据えている。

年明けから始まる女流棋士採用試験だ。

外来からよほどの相手が出てこない限り、院生1位の彩の合格は堅い。

無事合格してほしいと思う。


「おはよう、佐為、彩」

「おはよう精菜」

「おはよ〜」


4月からこの3人でプロをスタートする為に。

次に一緒に棋院に行くのは、新入段者免状授与式であってほしい――















対局開始3分前。

先に席に着いていた京田さんの前に僕は座った。


「おはよう」

「おはようございます」

「いよいよだな」

「そうですね」



この4週間の特訓の成果を出す日が来た。

無音で深呼吸して、息を整え、高まる気持ちを抑える。


そして目の前の敵に僕は鋭い視線を向けた。

京田さんも僕を睨み返してくる。


全勝同士の戦い。

勝っても負けてももちろん合格は出来る。

でも今の僕に一敗なんて文字はありえない。

『佐為』の名に相応しい結果で終わりたい。

自分自身の為に――




「「お願いします」」






16の四、4の16、16の十六、4の四……


精菜の時と同じく、まずは四方の星を打ち合う。

僕が黒で、京田さんが白。

しばらくの間よく見かける布陣が続く。


京田さんが20手目、4の三を打ったところで僕は少し手を止める。

一つ前に彼が放った11の三……隅の実利を取る為には働くか、それとも遊ぶのか。


3の四を打つと、間髪入れず3の六を打ってきた。

3の五、4の五、2の六と左上の攻防が続く。


次第に下方にも攻め出す。

9の十七、激しく京田さんが打ち込んでくる。

8の十六で対抗、中央への脱出を防ぐ。

13の十七で引けば10の十六とコウを誘う。

売られた喧嘩はもちろん買う。

11の十八でしっかりやり返す。




――強い

やっぱり、予想通りの強さだ。


だけど、今のところ目立った手がない。

まだ仕掛けてこない。


チラリと彼の表情を確認した。

真っ直ぐ碁盤に向けられた目。

何を考えているんだろう。

碁笥に入ったままの指先が、石を掴んだり離したりしている。



仕掛けて来ないなら――こちらから仕掛けてやろうか。


この4週間に打った何十…いや、百を余裕で超える父のあの妙手の棋譜が頭の中で再現される。

いつも解いてばかり、解読してばかりいたけど――




パチッ




6の十に石を打つと、京田さんが少しばかり目を見開いて、僕の方に鋭い視線を向けてきた。


僕が大人しく待ってあげるとでも?

僕が君や父のような一手を打てないとでも?



白川先生が「打ち掛けにして下さい」と合図をする。

一時間、時間をあげるよ。

解けるものなら解いてみるがいい――












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