●IGOKON U 1●
「アキラさん、病院には行ったの?」
どうしても必要な昔の棋譜を取りに実家に立ち寄ると、母親に呼び止められた。
有無を言わさず「ちょっと来なさい」と居間に連行される。
「すみません、まだ行ってません…」と正直に話すと、母の目が吊り上がった。
「まだ行ってないの?!あなたもう33なのよ?!それがどういうことなのか本当に分かってる?!」
母が金切り声を上げる中、僕は
(また始まった…)
と解放されるまでの30分が惜しくて遠い目を向けるのだった――
「ただいまー…」
「お帰り〜〜。棋譜見つかった?――っておい!大丈夫か??」
ようやく母から解放された僕はへとへとになって自宅へ戻った。
疲れて玄関で倒れ込んだ僕を見て、進藤が慌てて起こしに来てくれる。
「母に捕まってしまったよ…」
「明子さん?何て?」
「…いや、たいしたことじゃない」
「ふーん?」
「それより例の棋譜見つかったよ。早く検討しよう」
「おう!」
僕らは碁盤の置いてある和室に急いだ――
僕と進藤は一応夫婦だ。
10年前、僕らが23歳の時に結婚した。
一応と付けたのは、普通の夫婦ではないから。
そう――僕らは『囲碁婚』、囲碁の為に結婚をしたんだ――
15歳の時から毎日のように会って、ひたすら打っていた僕と進藤。
みるみる戦績は上がっていき、お互いタイトルホルダーにまで上り詰めるのに時間はかからなかった。
このまま一緒にずっと打っていけば、いつか必ず神の一手を極めることが出来る――そうお互いが確信していた。
けれど問題が一つあった。
それは進藤は男で、僕は女だということ。
年頃になると僕達が昼夜問わず一緒にいることで、下世話な噂が流れ始めた。
仕方なく「付き合ってますから」作戦でいくことにしたのだが、これも裏目に出てしまう。
実際は碁を打っているだけとはいえ、結婚前の若い女が彼氏の家に入り浸ったり、自分の家に招いたりすることを世間は許してくれなかった。
「何か面倒くせぇなぁ…。もう結婚しちゃうか、塔矢」
結局これがプロポーズとなった。
あれから早10年。
順風満帆の棋士人生とは裏腹に、僕にはまた大きな問題が出てきた。
「子供はまだ?」問題だ――
パチ パチ パチ…
和室に碁石を置く音だけが鳴り響く。
碁盤を前に真剣な眼差しで打ち進める進藤の顔をチラリと見た。
この問題をすぐに解決するには『離婚』するのが一番なんだろうなと思う。
離婚すれば子供は産まなくていい。
けれど離婚したところでまだ僕らは33だ。
すぐに新たな縁談話が用意されるだろう。
他人と再婚して進藤と打てなくなってしまっては本末転倒だ。
それに僕は離婚だけは絶対に嫌だった。
「やべっ、もう日付変わってるじゃん!明日朝イチで松山なのに!」
進藤がバタバタと準備し始めた。
お風呂もカラスの行水のごとく一瞬で入り、タオルでガシガシ頭を拭いている。
「――あ、そうだ塔矢。今日…いい?」
碁石を片付けながらドキリと胸が鳴る。
「…いいよ」
小声で返事をし、僕もお風呂に入る。
そして自室に戻った頃、コンコンと戸をノックして進藤が入ってきた。
「ごめんな、もう溜まっちゃって溜まっちゃって。明日から遠征だし、どうしても今日出しておきたくてさぁ〜」
「そう…」
チュッと軽く口付けされて、ベッドに倒される。
軽く適当に触られて、すぐに挿れられて、あっという間に彼は出して。
情事という情事ではなく、単なる性欲処理。
早い時は10分も経たずに終わる。
それでも――それでも彼は月イチでこれを求めてきて、僕も月イチでこれを受け止める。
こんな生活を10年も続けているんだ、彼に抱かれ続けて情が移らない方がおかしい。
いつの間にか好きになっていた。
結婚してから好きになった。
だから離婚だけは絶対に嫌だった。
「ありがと、塔矢。お休み」
「うん…お休み」
進藤が後処理をして僕の部屋から出ていった。
後処理とはもちろん、付けていた避妊具を取り外してティッシュに纏めて捨てること。
ふと、昼間の母の言葉を思い出す。
《病院には行ったの?》
ふん、今の状態で病院に行ったら僕は笑い者だ。
どこの世界に避妊してて子供が出来ないと婦人科を訪れる人がいるんだ。
確かに僕らは結婚して10年。
10年もずっと子供がいなかったら不妊だと親にも勘違いされても仕方がない。
だけどこのままで許してくれる親でもないだろう。
本当は僕だって子供がほしい。
好きな人の子供を産みたい。
……進藤はどう思ってるんだろう……
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