●FIRST-STAGE 8●
「ありません…っ」
対局開始から一時間後、相川さんが頭を下げた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました…。うーん…ここのコウ取りミスったのかな?」
「ツグべきでしたよね。そしてこの12の十七に回った方が分かりやすかったかと」
「なるほどね。ここの連絡も急過ぎたよね。進藤君にコスまれて左辺が弱くなっちゃったし」
「そうですね」
検討もそこそこに、僕は隣で行われている二回戦の対戦相手の盤面を伺うことにする。
伊東四段と、院生2位麻川さんの一局。
もちろん白が優勢、このままいくと4目半で伊東四段が勝つだろう。
彼がチラリとこちらを向いてきて、目が合う。
もちろんすぐに盤面に視線を戻したけど、余所見するほど余裕があるんだな…と感心する。
去年の新人王戦で窪田七段には敗れはしたものの、準優勝だった伊東四段。
二十歳の大学生らしい。(しかも国立大)
午後からの対局を楽しみに、僕は昼食に向かうことにした。
「佐為、一緒にお昼行こ」
とドアを出たところで、とっくの昔に終局していたらしい精菜が近付いてくる。
「精菜…中押し?」
「当たり前だよ。私が院生(の内海さん)に負けると思ってるの?」
ツンと返される。
中押し以外あり得ないでしょ、と。
ちょっと恐い…。
「お兄ちゃん私も一緒に行く〜」
と彩もやって来た。
「彩も勝った?」
「うん、中押し〜」
三人で駅前のセルフカフェに向かうことにした。
まだ11時過ぎなので店内は結構空いていた。
「お兄ちゃんは昼から誰との対局になりそう?」
トーナメント表を広げながら彩が聞いてくる。
「伊東四段。さっき盤面確認したらもう終局しそうだったし間違いないと思う」
「新人王戦で準優勝の伊東四段?結構強敵だね…。優勝候補でしょ?」
「まぁね」
「精菜は次誰と?」
「たぶん金森女流二段かな」
「金森女流…?あんまり知らないや」
「でも佐為はよく知ってるんでしょ?この前仲良さげだったもんね」
またツンと精菜が向こうを向く。
「え、何?お兄ちゃん浮気?」
「そんなわけないだろ?!金森さんは西条の彼女だから、西条から話を聞かされまくって知ってるだけだよ!」
「へー、西条さんの」
なるほどね〜と、彩がアイスティーをストローで吸った。
「彩は次誰とだよ?」
「たぶん瀬戸二段かなぁ」
「瀬戸二段?ああ…太田九段門下の」
「そ。窪田七段と一緒の門下だよね。京田さんてまだあすこの研究会顔出してるのかな?」
「どうなんだろな…」
父の門下になった京田さんだけど、別に他の研究会に参加しても問題はない。
父は来週から今度は本因坊の七番勝負が始まるし、ということは自然と研究会の回数も減る。
父抜きで京田さんと打つことももちろんあるけど、週に一回くらいだ。
「お兄ちゃん、研究会がない放課後は西条さんとべったりだもんね。仲いいよね〜」
「まぁ同じクラスだからな。授業終わったらそのまま打てるし…便利だよなやっぱ」
精菜がピクッと反応する。
「便利…?」
「え?」
精菜が僕の腕の服を掴んで、顔を覗きこんでくる。
「私も佐為にとって便利な女なの?」
「え…っ?」
「だって佐為、全然私と打ってくれないじゃない。一緒にプロになったらもっと打ってくれるって言ったよね?」
「あ…ごめん、精菜…」
「佐為が私の家に来るのっていつも触りに来る時だけじゃない。私のこと便利な女だって本当は思ってるんでしょ?」
「ご、ごめん…。別に思ってないけど…ごめんな?」
「わー…お兄ちゃんサイテー」
「彩うるさいから」
精菜が涙を滲ませてくる。
「私より西条さんの方がいいの…?私と打つより価値あるってこと?」
「そんなこと思ってないよ。精菜と打つのも好きだし、勉強になるよ。でも……」
「でも?」
言おうかどうか迷ったけど、本心を伝えることにする。
嘘は吐きたくない。
(彩の前だけどこの際仕方ない)
「僕は精菜が好きだから…二人きりで打つのは正直ちょっとキツい。余計なことばっか考えてしまって…集中出来ないんだよ」
「佐為…」
「だから西条に逃げてた……ごめん」
「……私を好きだから?」
「そうだよ。精菜にしかこんな気持ち持たないよ…」
「そっか…。佐為にとって私は碁打ちじゃなくて恋人なんだね…」
「ご、ごめん…。嫌だった…?もちろん精菜と打つのも好きだよ……でも」
「ううん。それってすごく――嬉しい」
精菜が僕の腕にぎゅっと手を絡ませてくる。
「仕方ないよね、私、佐為の恋人だもんね。二人きりでいたら佐為、平常心でいられないよね」
「うん…」
「じゃ、今度からは複数人で打とう♪それなら大丈夫でしょ?」
「うん…じゃあ精菜も誘うな」
「うん♪」
機嫌がすっかり直った精菜と、腕を組んだまま一緒に棋院に戻った。
さ、午後からの対局だ――
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