●DOUGHTER 4●
名人戦を終えた後、用事で棋院に行くと―――信じられない噂が流れていた
「マジ?進藤先生と秋月さんが結婚?進藤先生やる〜」
「塔矢先生複雑だろうな。自分と同い年の息子が出来るなんてさ」
誰と誰が…結婚するだって?
誰に何が…出来るだって?
し…
し…
ししし…
「進藤ぉぉぉっっ!!!!」
もう驚きを通り越して怒った僕は、すぐに噂の当本人に詰め寄った。
呑気に一階の喫茶店でコーヒーなんか飲んでいたので、引っ張って店から連れ出す。
「一体どういうつもりなんだ!!有栖には手を出すなとあれほど言っただろう?!それどころか結婚って…っ、一体どういうことなんだ!!」
「お〜さすが奈瀬。仕事が早いねぇ」
「進藤!ちゃんと説明しろ!」
「オマエの方こそ説明しろよ。一体いつから旦那に浮気されてたんだよ?」
「…え?」
進藤が急に真面目な顔になって、逆に僕を問いただしてきた。
絶対に他人には知られたくなかったことに…思わず僕は口を噤む。
「…別にキミには関係のないことだ」
「関係ないわけないだろ!?オレはオマエのこと、ずっと好きだったんだからな!」
―――え…?
「今…何て?」
「だから、好きだって言ったんだよ!旦那に浮気されてんだろ?さっさと離婚しちまえよ」
「…離婚してどうするんだ。キミと再婚しろって?」
「ああ。オレと人生やり直そうぜ」
「………」
呆れるぐらい簡単に言ってくる彼。
そんなに簡単に出来るものなら…とっくの前にしてるよ。
…いや、離婚なんてこと…本当は今まで真剣に考えたことがなかったのかもしれない。
夫の浮気のことを知っても…そんなこと思いもしなかった。
「…ごめん、突然。本当はオレ、オマエにこのこと…打ち明けるつもりはなかったんだ。オマエが幸せなら邪魔するつもりはなかった」
「…僕が不幸だとでも?」
「分からねぇけど…。でも、少なくともオマエの旦那よりかはオマエを幸せにしてやれる自信はあるよ」
「……」
「すぐに返事くれとは言わない。名人戦終わって落ち着いてからでいいからさ、本気で一度考えてみてよ」
「……分かった」
僕が頷くと、進藤は安心したような顔をして、「じゃ」と方向転換した。
「…あ、そうそう。ちなみに有栖ちゃんとは何もないからな。ちょっと京極に発破かけてやろうと思って流しただけの嘘だから」
「京極って…京極七段?」
「そ。もしかしたら未来のオマエの息子になるかもな〜」
「そう…。そうだったんだ…」
息子と聞いて、僕は改めて有栖がもうそんな歳に成長したんだな…と実感した。
有栖には幸せな結婚をしてもらいたいな。
そう思うのは……僕が自分の結婚を幸せだと思っていない証拠なのだろうか……
「防衛おめでとうございます」
結局第七局まで縺れ込んだ今回の名人戦。
何とか今回も無事防衛に成功することが出来た。
最終局の解説も進藤が担当することになったので、彼とは何度も話す機会が持てたのだけど……結局、彼の方からは例のことについてあれから一度も触れてはこなかった。
今の生活を続けるか……進藤と新しい生活を始めるか……
どっちがいいのだろう……
「有栖。今年の年末年始はお父さんのところに行こうと思うんだけど…、一緒に来る?」
「え?ウィーン?行く行くー♪」
こういう話は電話でするべきじゃない。
そう思った僕は、有栖を連れて夫の拠点の地に乗り込んでみた。
ここに来るのは何年ぶりだろう。
夫に会うのも久しぶりだ……
「京極にザッハトルテ買ってきてって頼まれちゃった」
「そう。じゃあ帰る前にザッハーのお店にも寄らなくちゃね」
「うん♪」
タクシーでホテルに向かう途中、うきうきと有栖はガイドブックをチェックしていた。
娘のその左手の薬指には、クリスマス前にはなかった指輪が光っている。
何だかんだで京極君とは上手くいってるらしい。
「…お母さん、お父さんと離婚するの?」
「どうかな…、まだ迷い中」
「えー、何で迷うの?絶対進藤先生の方がお母さんのこと想ってくれてるのに。お父さんなんて空港まで迎えに来てくれないどころか、私達をアパートにも泊めさせてくれないじゃない。絶対マリーと同棲してるからよ!許せない!」
「………」
マリーじゃなくてマリアなんだけど……なんてどーでもいいか。
夫の浮気相手は、夫と同じオーケストラ所属のハンガリーの女性だ。
夫が僕と出会う前にずっと付き合っていた人らしい。
僕と結婚した何年後かに再会して……よりを戻したらしい。
………僕がいるのに………
そのことを知った直後はやっぱり辛かったけど、当時の僕には泣いてる余裕なんてなかった。
有栖の子育てが大変だったせいもあるけど、一番は棋戦で忙しかったから。
それを理由に現実逃避したとも言うかな。
見て見ぬ振りをした。
しばらくすると元々あまり会わない人だから…別に気ならなくなった。
僕と有栖に会う時だけ夫と父親に戻ってくれれば、普段他で何してようがどうでもよかった。
それだけの価値の人。
有栖も成人した今……僕があの人の妻であり続ける理由はあるのだろうか……
「久しぶり、アキラ」
「うん…、久しぶり…」
滞在一日目の夜。
僕は夫を泊まっているホテルのバーに呼び出した。
「相変わらず綺麗だな。20代に見えるよ」
「日本人は童顔だから」
「はは、確かにそうなのかもな。有栖は?部屋か?」
「うん…時差ぼけで眠いからってもう寝ちゃった…」
「そうか…。あ、そうそう。これ明日のコンサートのチケットなんだ。有栖と一緒に聞きにおいで」
「ありがとう…。有栖は喜ぶと思う。本場のオーケストラなんて滅多に聞けないし」
「大学頑張ってるのか?」
「辞めたいって煩いよ」
「はは、有栖は棋士志望だからな」
「志望じゃなくて…もう立派な棋士だよ。女流だったけど、僕もタイトル取られたし」
「でも確か今年また取り返したんだろう?」
「僕も負けず嫌いだったみたい」
夫婦ってこんなものなのかな?
僕と夫の会話の内容は99%有栖のことだ。
子供をネタにしないと特に話すこともない。
もし……もしも、進藤と結婚していたら…どうだったんだろう。
もし進藤と再婚すれば……どうなるんだろう。
少しは違うのかな……
「…あの」
「ん?」
「マリアさん…とは、まだ…続いてるの?」
「…やっぱりバレてたか。すまない」
「……」
夫が軽く頭を下げてきた。
それで謝ってるつもり?
「僕より…マリアさんの方が…好き?」
「……」
「正直に言っていいから…」
「んー…本当に正直に言うと、どっちも好きかな。アキラにはあんまり会わないからかな。会う度に綺麗な奥さんにドキドキしてるよ」
「……」
「マリアとは付き合いが長い分…そういうのはないけど。でも、一生一緒にいたい人…かな。ごめん…」
ごめん…なんて、謝られても、僕は一体どうすればいいの?
僕とは一生一緒にいたくないって?
今の言い方…まるで僕の方が愛人みたい……
「…ふ……」
バシャ
バシャ?
「ふざけるな!」と叫んでやろうかと思った矢先、思わぬ水音に顔を上げると―――夫の頭から水が垂れていた。
その後ろには空になったグラスを持った進藤が。
――って、し、進藤??!
なんで……
「ふざけたこと吐かしてんじゃねーよ、オッサン」
「…誰だ?キミは」
「は?アンタ棋士の奥さん貰ったくせに、オレのこと知らねーの?ちょっとはチェックする気ないのかよ。塔矢の同僚だ」
「アキラの同僚さんが、どうしてこんな所にいるんだ?」
「アンタから塔矢を奪いに来たからに決まってんじゃん!オレはアンタと違って、塔矢と一生一緒にいたい男だからな!あーあ自分が情けないぜ。こんな奴がライバルだって分かってたら、もっと早く奪ってたのに!」
「……」
「アンタには塔矢は勿体ないよ。行こうぜ、塔矢」
進藤が僕に手を差し延べてきた。
一瞬の躊躇いもなく、何故か僕は手を出すことが出来た。
「アキラ…」
「…あなたには僕は必要ないみたいだから。お望み通り、マリアさんの所に行って下さい。さようなら」
「……」
「行こう、進藤」
「おう!」
進藤とこの先どうなるかはまだ分からない。
でも僕は、僕を必要としてくれてる人、僕だけを愛してくれる人の横にいたいと思った―――
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