●BARGAIN 1●
――進藤が結婚したら
僕だって結婚するつもりなのに――
「あれ?塔矢?」
馴染みのある声に呼ばれて視線を向けると、「おはよ」と笑顔でこっちに向かってきている進藤の姿が見えた。
「同じ便?11時?」
「そうだけど…」
「じゃ、一緒に行けるな♪」
僕の横の空いている席に、そう言って有無を言わさず彼は腰掛けてきた。
僕と一緒がまるで嬉しいかのような彼のセリフに、慌てて読んでいた小説に視線を戻した。
顔が赤くなったのが分かったからだ。
「こう毎週のように移動だと辛いよな〜」
「そうだね…」
「なぁ、オマエっていつもココで時間潰してんの?」
「いつもじゃないけど…今日はたまたま」
たまたま搭乗口から近かったから、寄ってみたのだと告げると、「オレも」と返ってきた。
羽田空港第一ターミナル、南ウィング、カードラウンジ。
今日は搭乗口のすぐ隣だったから、たまたま目に入って寄ってみただけだった。
進藤と鉢合わせるなんて運がいいのか、悪いのか。
前者は相変わらず彼に密かに恋心を抱いている女としての気持ち。
後者はこれから戦う相手と対局前に馴れ合いたくない棋士としての気持ちだった。
――そう
僕は進藤が好きだ――
この気持ちに初めて気付いたのは15歳の頃。
まだ僕の方が彼より身長が高かった頃だ。
もちろん気付いてしまったが最後、すぐに告白した。
「好きだ、僕と付き合ってほしい」と勇ましく申し出た。
特に考えるでもなく「いいぜ」と即答された。
「オレもオマエのこと好きだし」と言って貰えて、信じられないくらい嬉しかったのを今でも覚えている。
だけど、打つ度に年中喧嘩ばかりしていた僕らが長続きするわけがなかったんだ。
「もうオマエとなんか別れるからな!」
「それはこっちの台詞だ!」
結局一年足らずで僕らは彼氏彼女という関係に終わりを告げた。
もちろん、別れたからって何ら変わりない。
相変わらず父の碁会所で頻繁に打っていたし、一緒に色んな研究会を巡ったり、いい歳した男女では考えてられないほど喧嘩もし続けた。
「なぁ、オレ邪魔?」
ずっと小説に視線を向けたまま会話を続ける僕を、進藤が屈んで顔を覗きこんできた。
「いや、別に…」
パタンと本を閉じて、彼の方に視線を向けた。
「そういえば今度本田さんの結婚式あるな」
何着て行こうかな〜とぼやいている。
結婚式の男性の服装なんて、スーツに白ネクタイと決まってるようなものだろう。
悩むのはこっちだ。
「聞いた?付き合って1年なんだって」
「ふぅん…」
もうすぐ進藤と仲のいい本田五段(36)が結婚する。
お相手は同じ棋士の本田女流二段(23)。
そう、同じ苗字の二人がゴールインするのだ。
最初に意気投合したのも名前が同じだったから。
「苗字を変えなくていいなんて便利だよね…」
「はは、『塔矢』はなかなかいないよな〜」
進藤には笑われたが、僕にとっては切実な悩みだった。
本気で本田女流二段が羨ましかった。
13の時に入段してから既に20年。
僕はずっと『塔矢アキラ』だったのだ。
今更結婚して他の名前を名乗るなんて考えられない。
夫婦別姓が早く一般的になればいいのに。
そりゃあ…もちろん、好きな人の苗字を名乗れるのなら、別に文句はないのだけれど…。
チラリと進藤の方を見た。
進藤は掲示板を見ていた。
「あ、もう搭乗始まってるな。行こう、塔矢」
「ああ」
一緒にラウンジを後にする。
平日の午前中の羽田なんてスーツ姿の男性が大半を締める。
僕らが今から乗る東京⇔福岡なんて、8割以上がそうだろう。
もちろん進藤もスーツ姿。
……格好いいな……
後ろから見ていて真摯にそう思った。
黒のステンカラーコートは、長身の彼を更に引き立てていた。
肩幅も広くなって、顔も身体も引き締まって、僕らが付き合っていた、15歳の頃の彼とはまるで別人だった。
ちなみに僕と進藤は前後の席だった。
これで二時間お別れか、と思いきや
「すみません、席代わっていただけませんか?連れなんで」
とちゃっかり僕の隣に移動してくる彼がいた。
「オレA350初めて♪テンション上がるな」
「僕は先月札幌に行った時もそうだったよ」
「へー」
モニターを早速触り出している。
僕はいつも通り機内誌に目を通す。
「…本田女流二段ってさ、23歳なんだって。すげーよな、本田さん。一回りも年下」
ピチピチだよな〜と、親父くさいことを言う彼を睨んだ。
「…どうせ僕はお局だよ」
「あ、ごめんごめん」
ちなみに今の棋院に僕以外30代の独身女性はいなかった。
他の女流は皆20代で結婚してしまっているのだ。
(40代には離婚して独身に戻った人が一人いるが)
「キミだって売れ残りじゃないか。本田さんが結婚したらキミの周りで独身の人はもういないだろう?」
「そうなんだよな〜。皆いつの間に。もう売れ残り同士、オレらで結婚しちゃおうぜ?」
「はは、いい考えだね」
冗談ぽく言われたので、冗談ぽく返す。
だけど僕の心臓は跳び跳ねた。
たちまち赤くなる顔を慌てて機内誌で隠した。
それから到着するまで僕らはずっと囲碁について語りあっていた。
今回の棋聖戦のことはもちろん、今度ある国際棋戦のメンバーについて、先日のリーグ戦の棋譜の検討、そして来年度に入段する有望新人についてまで。
「和谷の息子もついに入段か〜。院生になってまだ1年半だろ?オレも打ったことあるけど、言っちゃ悪いけど絶対父親よりいい線いくよなぁ」
「和谷君も誇らしいだろうね」
あっという間の有意義な2時間だった。
「――塔矢」
「なに?」
シートベルトサインが消えて降りる準備をしていると、突然進藤に腕を掴まれた。
「さっきの話、オレ、本気だからな」
「……え?」
進藤の顔が近付いてきて、ドキリとなる。
小声で耳打ちされる。
「結婚。帰りに答え聞くから、よく考えてみて」
「え……」
照れ臭そうに慌てて離れて姿勢を正していた。
――こんなの
こんなのこんなの絶対反則だろう。
盤外戦もいいとこだ。
大事な大事な棋聖戦の前に、棋聖が挑戦者にプロポーズするだと??
どうして今なんだ。
どうして今頃。
どうして今更――
「そんなにショックだったの?本田さんの結婚…」
タクシーで前夜祭の行われるホテルに移動中、いてもたってもいられなくて聞いてしまった。
進藤はチラリと僕に視線を向けた後、また窓の外を見た。
「本田さんは関係ない」
「そう?」
「オレ、もう諦めたんだ」
何を――?
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