●9 MEMORIES 7●
●○● ActF 復帰 アキラ ●○●
退院してから数日後、僕は結局記憶が戻らないまま棋戦に復帰することになった。
女流戦ならなんとかなったが、さすがに普通のタイトル戦は厳しい。
どのリーグ戦も本戦も、僕は連戦連敗だった。
「大丈夫か?アキラ君」
「大丈夫なわけないですよ…」
今日の対戦相手の緒方さんが、休憩時間にコーヒーの差し入れを持って話しかけてきた。
「自分が情けないです…」
「はは。まぁ9年間、皆それぞれ切磋琢磨してきたわけだからな。そう簡単にはいかないよ」
「…そうですね」
緒方さんの打ち方もずいぶん変わった。
前にも増して嫌らしくなった。
子供じみた挑発は相変わらずだけど…。
「で?まだ進藤の家にいるんだって?」
「別に彼の家に居候してるわけじゃありません。あそこは僕の家でもあるんですから」
「それで?もう進藤とは寝たのか?」
「そ、そういうことを聞くのはやめて下さい!僕はもう子供じゃないんですから!」
「精神年齢はまだ15のお子ちゃまだろう?進藤に襲われて逃げ出さなかったのか?」
「緒方さん!!」
15歳だって、外見が24歳なんだから24歳として扱われる。
今はもうそんなに違和感なく対応出来てるはずだ。
進藤とだって、対等に話せている。
いや、彼は…最初から僕を子供扱いしなかった。
しなかったから…一緒に住み始めた初日から体を合わせることになったんだろう。
もちろん、今も定期的に合わせている。
翌日が休みの日なんて容赦なく一晩中求められるし…。
思い出したら顔が熱くなってきた。
進藤と住み始めて、気が付いたらもう3ヶ月。
そういえばもう3ヶ月も記憶がないままなんだな…。
「ま、午後もよろしく頼むよ」
去っていった緒方さんの姿が見えなくなってから、僕は戴いたコーヒーの缶を開けた。
「……?」
変な味がした。
腐ってるのか?
それとも緒方さんに変な薬を盛られた?
いやいや、今さっきすぐそこの自販機で買ったのを僕にくれたんだ。
緒方さんには申し訳ないと思ったが、僕は残りのコーヒーを全て手洗い場に流した。
午後の対局が始まった。
でも緒方さん優勢なのは一向に変わらず、勝ち目がないと思った僕は早々に頭を下げた。
「検討するか?」
「いえ…、今日はもう帰ります」
僕は足早に棋院を後にした。
だって、さっきあのコーヒーを飲んだ時からずっと胃が気持ち悪いんだ。
モヤモヤして…気を抜いたら吐いてしまいそう。
電車で家に帰る途中もそれはずっと治まらなくて。
むしろどんどん悪化してきて。
家に着いた後、僕は一目散トイレに駆け込んだ。
「はぁ…は…ぁ…気持ち悪い…」
思いっきり吐いた後、僕はフラフラとリビングのソファーに倒れこんだ。
進藤の方はまだ帰ってきてないんだな…。
帰って来るまでに夕飯の買い物に行かなくちゃ…。
洗濯物も取り込んで…たたまなくちゃ…。
やることはいっぱいあるのに全く体が動かない、動かせない。
気持ち悪い……
「アキラー?帰ってるのか?」
夜7時を過ぎて進藤が帰ってきた。
「お帰り…」
とソファーに寝そべったまま返事をする。
「どうしたんだよオマエ。電気も点けないで。寝てたのか?珍しいな」
進藤がパチッと部屋の電気を点けた。
「ごめん…ちょっと、気持ち悪くて…」
「大丈夫か?」
また限界まで来て、僕は慌ててトイレにかけこんだ。
もう出すものがない僕の胃は、胃液だけを吐き続ける。
「アキラ?!大丈夫か?病院行くか?」
「大丈…夫…」
「いいや、大丈夫じゃねーよ。病院行くぞ、今度は。絶対!」
「進藤…?」
進藤に無理矢理引っ張られて、僕は近くの病院に連れていかれた。
僕を送り届ける間、進藤の顔は真っ青だった。
病院行くぞ、今度は…って、どういう意味なんだろう。
昔行かなかったことがあるのか?
もしかして結婚式の時のアレか?
僕が我慢しすぎて…結局式の途中で倒れたとかいう……
「おめでとうございます、6週目に入ってますよ」
「…え…?」
医師から妊娠を告げられた僕は、ポカンとしてしまった。
そうか…この気持ち悪さは悪阻だったのか。
僕に赤ちゃんが出来たんだ…
まだ全く膨らんでいないお腹に手を当ててみた。
「進藤、聞いた?僕に…」
後ろを振り返ると、当然喜んでくれてると思った彼の顔は予想と違って……涙を流していた。
「進藤…?」
「ん?ああ…ごめん。やったな。これからは安静にしなきゃな…」
「う…ん」
病院から戻る途中も、進藤の様子は変だった。
ひとり考えこんで。
あんまり嬉しくなさそうだ。
ふと、初めて彼と結ばれた夜を思い出した。
夫婦なのに…ゴムを付けたがった彼。
僕の体の為とか言ってたけど、やっぱり本当の本当は子供なんか欲しくなかったんじゃ……
「進藤…、僕…産んでもいいよね…?」
「は?!なに言ってんだよ!当たり前じゃん!」
「だってキミ…、あんまり嬉しそうじゃないし…」
「ん、んなことねーよ!すっげー嬉しい!世界中の人に言いふらしたいぐらい!」
「本当に…?」
「ああ!」
「そう…、ならいいけど…」
でも、帰ってからも進藤の様子は明らかに変だった。
妙にソワソワして、電話を手に取ったり、置いたり。
僕に何か言おうとして…やっぱり口を閉じて。
「まだ気持ち悪いから先に寝るね、お休み…」
「おう、お休み!」
「……」
僕が寝室に行く振りをすると、待ってましたと言わんばかりに彼は電話を取った。
一体誰に電話する気なんだ?
まさか、浮気とか……
「…あ、明子さん。ヒカルです」
でも進藤の電話相手は意外だった。
お母さん…?
「実はアキラに赤ちゃんが出来たみたいで…。はい、今日分かって。ありがとうございます」
なんだ、僕の妊娠の報告か。
しかもちゃんと喜んでくれてるみたい。
何だか一気に安心して、僕は寝室に帰ろうとした。
その時―――
「…いえ、まだ話せてません。流産のこと…どう切り出せばいいのか分からなくて…」
流…産…?
僕は無意識にお腹に手をあてた。
あれ…?
前にもこんなことなかったか…?
お母さんと進藤の話を聞いてしまって……
確かあれは…どこかの病院。
そう――赤ちゃんが…
僕のせいで…
そうだ、僕が子供より結婚式を取ったせいで…間に合わなかったんだ…
僕のせいで―――
「い…や…、いやあああぁぁぁっ!!!」
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