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(
今日はもう来ないのかな…)



チラリと受付上の壁にかかっている時計を見た。

既に18時を回っている。

僕は周りに聞こえない程度の小さな溜め息をついて、並べていた碁石を片付け始めた。



「アキラくん帰るの?」

「うん、またね市河さん」

進藤くん、結局来なかったわね」

「別に約束していたわけじゃないから。じゃ


入口を出てドアが閉まる直前、「進藤の野郎」と北島さんが毒気付く声が聞こえた。


――
そう、別に約束していた訳じゃない。


でも今日は手合いもないし、森下先生の研究会の日でも和谷君達の勉強会の日でもないから。

そういう日はいつもこの碁会所に来てくれてたから。

だから僕も期待して朝から待っていたんだけど。

けれど結局彼は現れなくて、さすがにもう来ないだろうと僕も帰宅することにした。


(
この前の緒方さんと倉田さんの棋聖リーグの一局、進藤と検討したかったんだけどな…)


鞄から携帯を取り出した。

電話帳を開くともちろん彼の名前はすぐに見つかった。

連絡すればよかったのかな。

そうだね、連絡してから行けばよかった。

明日は僕が対局の日だと彼も知っている。

明日は囲碁サロンには絶対に来ないだろう。

じゃあ次は一体いつ来てくれるんだろうか。

携帯を再び仕舞い、僕は帰路についた。










――え?マジ?進藤に?」


翌日朝、僕は手合いの為棋院に来ていた。

今日の対局は天元の二次、相手は冴木五段だった。

森下先生の門下である彼は研究会で会う進藤とも仲がいい。

その彼の口から「進藤」の台詞が出て、僕は無意識に彼の方に視線を向けた。


「彼女?」

「そうそう、この前のイベントでファンの女の子からコクられたらしくて」

OKしちゃったわけ?」

「らしいよ。一部始終見てた奴の話だと、結構可愛い子だったらしい」

「へー、今度研究会で会ったらイジッてやろ」


開始時間が近付いて、冴木五段が僕の前に座った。


「今日はよろしく、塔矢」

よろしくお願いします」

「聞いた?進藤に彼女が出来たらしいよ」

そうですか」

「生意気だよな〜。ま、でも進藤ももう17だっけ?ついにアイツもそういうお年頃かぁ」

……


ブザーがなって全員が一斉に頭を下げた。

冴木さんがすぐに一手目を打つ。

けれど僕は碁笥に指を入れたまま中々打つことが出来なかった。

頭が真っ白とはこういうことか。

自分でも驚くほど動揺しているのが分かった。


進藤に――


進藤に――彼女?


彼女って……恋人が出来たってことか?

もしかしたら、もしかしなくても、だから昨日、囲碁サロンに来なかったのか?

もしかして、今後は彼女を優先して、もう来ないつもりなのか?


目の前が真っ暗になった――











夕方、僕は失意の中とぼとぼ駅までの道を歩いていた。

何とか勝ちはした。

何とか本当にギリギリ、半目勝ちだ。

情けない。

こんな不様な内容、絶対に進藤に見せられない。

彼に会いたくない。

会いたくない会いたくない会いたくない。


会いたくない――のに



「あれ?塔矢?」


改札に入ろうとしたら、反対に出てきた進藤とバッタリ会ってしまった。

こういう時に限って……


「今帰り?勝った?冴木さんとだろ?」

……

「どした?あ、ちょっと待っててくれる?出版部に原稿届けたらすぐ戻ってくるから。も〜今日締め切りだってすっかり忘れててさぁ」

……

「まだオマエんとこの碁会所開いてるだろ?この前の緒方先生と倉田さんの一局検討しようぜ」


あ、その前に今日のオマエの対局並べてくれよな!と能天気に言ってくる彼の顔を睨んだ。


――どうして昨日来なかったんだ?」

「え?」

「今日はもう疲れてるから嫌だ」


嘘だ、疲れてなんかない。

進藤とだったらあと何局でも打てる。


「昨日だったら時間あったのに。なぜ来なかったんだ?」


僕って意地悪だ。

知ってるくせに。


「あー


進藤が言いにくそうに頬を掻いた。


「ちょっと、野暮用で

「野暮用って何?」

「あー実はさぁ」

「彼女出来たんだって?」


進藤の口から聞かされたくなかった。

こっちから仕掛けると「だ、誰から聞いたんだよっ」と焦っていた。


「冴木五段から聞いた」

「ええ?!冴木さん何で知ってんの?!」


和谷の奴、もしかして言いふらしてるな、とかぐちぐち言ってくる。


「そーだよ、昨日はその子と会ってたんだよ。だから行けなかった。ごめん」

「別に謝る必要はない。別にキミなんか待ってなかったし」


また、この口が嘘をつく。

本当は朝から晩までいたくせに。


「でもまだちゃんと付き合ってるわけじゃないんだ。ファンの子だし、気持ち無下に出来ないだろ?」

……

「お互いよく知らない訳だし、とりあえずお試し期間ってやつ?何度かデートして、それから本当に付き合うかどうか決めるつもり」

「それで?僕と打つ時間を減らして、その子と会うのか」

「そ、そんな言い方するなよ

「実際そうだろう?昨日その子と会う為に僕と打たなかったんだから」

「それはそうだけど」


進藤が周りを気にし出した。

駅前で、さっきから棋士も何人か通っているからだ。

くすくす痴話喧嘩してると笑われている。


「場所変えよう」と彼は棋院に向かい出した。

僕も仕方なくついていく。

ひとまず出版部に原稿を提出した彼は、既に営業時間を終えた一般対局室に僕を連れてきた。




「ここで検討する?」

「しない」

「じゃ、話の続きだけど。オレはオマエと打つ時間は割きたくないよ」

……

「でもオマエだって彼氏とかそのうち出来るだろ?仕方ないんだよ、そういう年頃なんだから」

「僕は彼氏なんかいらない。碁の方が大事だ」

「オレだってそうだよ」

「じゃあ彼女とは別れるんだな」

「何でそうなるんだよ。じゃあ何か、オレに一生一人でいろと?」

「そうだね。それが一番理想だね」

「オマエなぁ」


進藤が「はぁー」と大きな溜め息をついた。

腕を組んで、イライラしてるように指をトントン鳴らしてくる。


「オレにどうして欲しいわけ?彼女と別れて?これから先結婚もせず一生オマエと碁だけ打ってろって?」

「そうだ」

「じゃあオマエもそうしろよ。一生碁だけ打って暮らせよな」

「僕はもともとそのつもりだ」

「んなわけにいかねーだろ?オマエ一人っ子なんだし」

「関係ない」

「関係なくないだろ?塔矢先生に孫抱かせたくねーのかよ」

「それはそうだけど。でも、キミが打ってくれなくなるのは我慢ならないんだ」

「打たないなんて言ってねーじゃん!ちょっと、月に何回か少なくなるだけだよ」

「何回か


僕らは今は週に約2回のペースで打っている。

一ヶ月を4週だとしたら単純計算で月8回。

月に8回しかないのに、そこからよく分からない彼女の為に何回か僕が我慢しなくちゃならないのか?

進藤のこのアホみたいな人生計画の為に。


「やっぱり無理だ。増やせてもこれ以上減らすことは出来ない」

「ええ?!じゃあどうすんだよ?オレに他の研究会辞めろと?棋院から来る仕事減らせと?」

「だから、彼女と別れたらいいんだ」

「だから、んなわけにいかねーって言ってるだろ?」

「別に好きでもなんでもないんだろう?ただ彼女という存在が欲しいだけなら――




僕を彼女にすればいいじゃないか!!




――え?」

「え?あ何言って


我に帰ると、自分の口から出た言葉に自分で驚いた。


僕はダッシュでその場を立ち去った――









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