●TIME LIMIT〜留学編〜●
『両親にも内緒で産みたい』
――妊娠が正式に発覚してから数日後。
知り合いの誰にも知られずに出産したいと言ってきた塔矢の願いを…オレは聞き入れた――
「でもさ、腹がデカくなってきたら…さすがにバレるんじゃねぇ?」
「大きくなったら身を隠すことにするよ。そうだね…世間には留学するとでも言っておこうかな」
「留学…?」
「でもいい機会だから、出産したら一ヶ月ぐらい本当に行ってくるよ。前からホームステイとかには興味あったしね」
「あ…じゃあその費用はオレが払うよ。子供を産んでくれるお礼…っていうのも変だけど、それくらいしかオマエにしてやれることねぇし…」
「ありがとう」
そして退院後―――外国へ渡ることになった塔矢。
その時オレは既に、産まれたばかりの娘と共に…新しい場所で新生活を始めていた――
「千明…今日はママが出発する日なんだよ…」
ミルクを飲んで眠ってしまった娘の横に、一緒に寝そべって話しかけてみる。
視線を窓の外に向けると雲一つない快晴で…ルートからしたらここの上空は通るはずがないって分かってるのに――飛行機を探してみたりした。
「気をつけて…な、塔矢…――」
○●○●○ 留学編 ○●○●○
成田から直行便で12時間。
飛行機を降りたら…そこは異国の地―――
「あと5分ぐらいよ、アキラ」
「はい」
空港で出迎えてくれたホストファミリーのウェルナー一家と、これから一ヶ月間ドイツで過ごすことにした僕。
表向きは語学留学。
でも本当の目的は―――アリバイ作りだ。
ほんの十日前に僕は出産した。
彼の…進藤の子供を――。
もちろん世間には秘密。
お腹が目立つ前からずっと留学してることになってるから、今日からその辻褄合わせを始める。
復帰した後に、留学中のことを聞かれても答えられるように――
「アキラは囲碁のプロなんですってね。オリバーも少し打てるのよ。仕事から帰って来たら相手してあげてくれる?」
「はい。喜んで」
僕を空港まで迎えに来てくれた奥さんは、ドイツ人とデンマーク人のハーフで、金髪碧眼のかなりの美女だ。
旦那さんはかなりの日本通で、日本料理や文化に興味津々だという。
この奥さんも影響されて、今では週に一度は日本食を作るとか。
「『いご』って…なぁに?」
後部座席に座っていた、まだ5歳ぐらいの女の子がお母さんに尋ねた。
「囲碁は日本文化の一つなのよ。ほら、パパの部屋に白と黒の玉がたくさんあったでしょう?あれで遊ぶの」
「ふーん」
「あ、あそこの角の家よ」
フランクフルトから北へ車で30分。
少し郊外のこの町は緑が多くて…すごくのんびりとした落ち着いた雰囲気だ。
いわゆる田舎…なんだろうな。
進藤が僕らの子供を育てる為に移る場所も田舎だと言っていた。
こんな感じなのかな…?
「ただいまー」
奥さんに連れられて家の中に入ると、今度は男の子が走ってこっちにやってきた。
「ママおかえり!この人がアキラ?!」
「ええ。アキラ、長男のフランツよ」
「初めまして。塔矢アキラです」
にっこりと笑うと、フランツも照れくさそうに笑ってきた。
さっきの女の子もそうだったけど、この家の子供達は人見知りを全くしない。
今までに何人もの外国人を受け入れてるホストファミリーだから、慣れてるのだろうか…?
「アキラ、あなたの部屋に案内するわ。こっちよ」
「ぼくスーツケースはこんであげる!」
「マリアも!」
「あ…ありがとう」
20キロ近くあるスーツケースを、下のキャスターを上手いこと使って二人で仲良く押し出した。
奥さんに案内されたのは南に面した明るくて広い2階の一室。
外国らしい乙女チックな壁紙、家具、ベッド、カーテンに、ずっと和室住まいだった僕の心はときめく。
「奥のバスルームとトイレはアキラ専用だから自由に使ってね」
「あ、はい」
「じゃあ足りないものは後で一緒に買いに行きましょう。取りあえずは夕食までゆっくりしてね」
「はい、ありがとうございます」
子供達を連れて奥さんが部屋を出ていった後、僕はクィーンサイズの大きなベッドに横になった。
「…疲れた…」
素敵な部屋…。
優しいホストファミリー…。
これが進藤の用意してくれた…最後のプレゼントか…――
*****
「はい、塔矢。言ってた便のチケットとホストファミリーの詳細な」
「ありがとう…」
入院するまで僕が隠れ住んでたのは、病院近くのマンションの一室。
進藤は仕事が終わると毎日のように様子を見に来てくれていた――
「ドイツなんて行ったことないんだろ?大丈夫なのかよ」
「平気。それに僕はドイツしか行けないんだ…。僕が既に話せるのは英語・中国語・韓国語・ドイツ語だけ。でも中韓には知り合いが多過ぎて嘘がすぐにバレる。英語圏は今更って気がするし、全く話せない言語圏に行っても今は疲れるだけだしね」
「そっか…。でも産後になるんだし…あんまり無理すんなよ」
心配そうに僕を見つめてくる進藤。
僕が最も過ごしやすいだろうと思われる、親日家の裕福なホストファミリーを探し出してくれたのも彼。
もちろん留学費用も全て彼持ち。
行き帰りのこのファーストクラスのチケットも…彼のせめてもの償いなんだろうな…――
*****
コンコン
「あ、はい。どうぞ?」
カチャッとドアが開いた先には、少しふっくらとした優しそうな女性が立っていた――
「初めまして。ナニーのオリガです。奥様が帰ってきましたので、赤ちゃんの世話を代わってもらい…取りあえず挨拶にと思いまして」
「あ…初めまして。塔矢アキラです。赤ちゃん…ってことはあの二人の他にまだ子供がいるんですね」
「はい。7歳のフランツ坊ちゃまに、5歳のマリアお嬢様、それに先月産まれたばかりのカール坊ちゃまの三人兄弟です。共働きの多いドイツでは、小さい子供のいる家では私のようなナニーを雇ってることが多いんですよ。でもここの奥様は専業主婦ですので、私は夏休みのみの臨時ですが」
「あ、じゃあ僕がいる間はずっといるんですね。これからよろしくお願いします」
「はい。奥様が赤ちゃんをみてる時は家政婦のような仕事もしていますので、何か用がありましたら遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとうございます」
…赤ちゃん…か。
まるで僕に現実を思い出させる戒めだな…。
この部屋にいても、泣き声が聞こえる度に……自分の子供のことを思い出す。
進藤のことを思い出す。
手配したキミなら、ここの赤ちゃんの存在ももちろん知っていたんだろうね?
僕に自分の子も忘れないでって…そう言いたいのか?
いつまで僕を縛り付けるつもりなんだ…。
キミには僕らの子供をあげたじゃないか…。
それで充分だろう?
いい加減…そろそろ僕を解放してくれ…――
○●○●○
「では!新しい家族に乾杯!」
「カンパーイ!」
旦那さんの音頭の元、僕の歓迎会も兼ねた夕食が始まった。
乾杯と言っても、ビールを飲むのは旦那さんだけで、子供達はもちろんのこと、奥さんもソフトドリンクだ。
もちろん僕も――
「アキラの資料に語学力はハイクラスと書いてあったけど、本当に上手ね。ビックリしたわ。ねぇ、オリバー?」
「ああ」
「ありがとうございます。ドイツ語はもう3年ぐらい習ってますので…」
「趣味が語学って書いてたけど、他にどんな言葉が話せるの?英語?」
「はい、英語も日常会話程度なら大丈夫です。あとは中国語に韓国語ですね。仕事柄この2ヶ国語はよく使いますので…」
「囲碁は日中韓が一番盛んだからな〜」
碁の話になると、途端に旦那さんが興味津々そうに話だした。
「TD杯の本戦ももうすぐ始まるね。日本を応援するよ」
「ありがとうございます」
「こっちでもね、アマチュアのヨーロッパ選手権の国内予選がもうすぐ始まるんだよ」
「オリバーったら大して打てないくせにエントリーしちゃったのよ。全く…」
「僕の身近には打つ人がいないからね。大会に出れば勝敗はともかく打つ機会が持てるだろう?」
「そうですね…」
思わずクスッと笑ってしまった。
でも、この欧州でも大会があって……それに向けてたくさんの人が日々精進してるのかと思うと嬉しくなる。
僕も折角ここに来たんだから、出来る限りの協力はしてあげよう――
○●○●○
平日の午前中はバスで10分程度の距離にある語学学校へ。
午後は買い物をしたり…カフェでお茶したり…図書館や本屋でのんびりしたり。
そして土日はホストファミリーと共に過ごす――
「ここで一子得したところで、こっちに打たれるとまた地が減ってしまうので同じことなんです」
「ああ、そうか…」
「だからそれよりもこっちを先にしっかり守って、その上でこの切れ目から攻める方が――」
ぐしゃ
「「あ」」
いつものように旦那さんと一局交えて検討していると、マリアちゃんが盤面を掻き回した。
「マリア!何てことをするんだ!せっかく…」
「だってパパばっかアキラと遊んでるんだもん!マリアもアキラと遊びたいもん!ひとりはつまんないもん!」
「フランツと遊びなさい!」
「フランツはお友達の家に行っちゃったんだもん!」
「じゃあママと遊びなさい!」
「ママはおとなりのヨハンナおばちゃんとお買いものに行っちゃったもん!オリガはベイビーとおさんぽにいっちゃったし、もうパパとアキラしかいないもん!」
旦那さんがムムっと口をへの字に曲がらせた。
「じゃあ…マリアちゃん、僕と遊ぼうか」
「うん!!」
マリアちゃんが旦那さんにベーっと舌を出して、僕をプレイルームというおもちゃがいっぱい置いてある部屋に引っ張っていった―。
「マリアね、このまえロンドンで買ったモノポリーがしたいの」
「へぇ…ロンドンに行ったんだ?」
「うん。家族みんなで行ったの。お洋服とアリスのお人形も買ったのよ」
嬉しそうにその時買った物を見せてくれる。
「モノポリーはね、ドイツのと場所の名前がちがうんだよ。日本にもある?」
「うん。日本のは東京の地名になってる」
「とーきょー?」
「日本の首都だよ。ドイツの首都はベルリンだね」
「マリア、ベルリンは行ったことあるよ」
続けて出してきたのは世界地図。
パラッとヨーロッパのページを開いて、次々に行ったことのある所を指差し出した。
「グランマはね、コペンハーゲンに住んでるの。パパのグランマはね、ミュンヘンに住んでるの」
「へぇ…」
「冬になったらスイスでスキーをするんだよ。アキラはしたことある?」
「ううん」
「日本は雪ふるの?」
「うん。でも僕の住んでる東京はスキーが出来るほど積もらないんだ」
「ここもおなじ!だからスイスに行くの!アキラも来年はいっしょに行こ!」
「うん…」
マリアちゃんは明るくて活発で…すごく可愛い女の子だ。
僕が産んだ子も女の子だった。
一体どんな子に成長するんだろうね…。
マリアちゃんみたいになるのかな…?
僕が今彼女と話してるように…娘とも話せる日は来るんだろうか…。
……なんてね。
今更何を思ってるんだか。
育てないと決めたのは僕自身じゃないか。
当然会う権利はない。
きっともう二度と…会えない…――
○●○●○
8月中旬――ミュンヘンでアマチュア囲碁ヨーロッパ選手権のドイツ大会が行われた。
参加人数は80名弱。
この大会でベスト4までに入ると、来週ローマで開催されるヨーロッパ選手権・本戦への出場権が与えられるらしい。
旦那さんの応援も兼ねて、僕も少しだけ会場を見て回ることにした。
すると―――
「――塔矢?」
「え…?」
信じられないことに、僕は会場で伊角さんと出くわした。
「あ、そうか。こっちに留学してるんだったな」
「伊角さんは…どうして…」
「俺はこの大会の手伝い。各国の予選会場を回らされて、移動だけでも結構大変だよ」
「はは。頑張って下さいね。じゃあ…」
「え?ちょっ、ちょっと待って!」
会釈して早々に立ち去ろうとした僕の腕を―――伊角さんが掴んできた。
「塔矢、進藤の居場所…知らないか?」
「え?」
「進藤、もう一ヶ月ぐらい行方知れずなんだ。棋院にも引退届け出して……あ、いや、もちろん棋院は受け取らなかったんだけどね。今は一応長期休暇扱いになってる」
「………」
僕がずっと留学してると思い込んでる伊角さんは、一から詳しく状況を説明してくれる…。
「和谷が進藤のマンションを訪ねたらしいんだけど…もう裳抜けの殼だったって。アイツの両親も居場所は詳しく知らないみたいだし…」
「そうなんですか…」
「進藤と仲の良かった塔矢なら何か知ってるんじゃないかと思って…」
「いえ…知りません。僕にはただ『田舎に行く』と…」
「田舎?あ…そういえば進藤の両親も地方で療養するって直接電話があったって和谷が…」
「………」
地方…?
それは一体どこなんだろう…。
今頃キミは一体どこにいるんだろう…。
僕らの子は……元気にしてる?
○●○●○
コンコン
いつものようにマリアちゃんとプレイルームで遊んでいると、少し慌てた感じで旦那さんがドアを開けてきた―。
「アキラ、申し訳ないんだが少しカールを見ててもらえないかな?」
「え?」
「ミルクがきれてしまってね。オリガは今日はもう帰ってしまったし、ママはフランツの試合に応援に行ってしまってて…」
「あ…はい。別に僕は構いませんが…」
「すまない。10分で戻るから」
旦那さんがバタバタと出かけてしまった。
「じゃあ…マリアちゃんも一緒に赤ちゃんの所に行こうか」
「うん!」
ベビーベッドの置いてあるリビングに行くと、まだ生後2ヶ月の赤ちゃんがスヤスヤと眠っていた。
……可愛い……
でも…近寄るのは正直言って気がひける。
もう僕には赤ちゃんを触る資格さえないんじゃないか…って、そんな気分になる。
「ベイビー、おねぇちゃんだよ〜」
ベッドの隙間から赤ちゃんの手を突っつくマリアちゃん。
「アキラアキラ!みてみて!」
「ん?」
マリアちゃんの手招きに誘われてベビーベッドを覗くと、赤ちゃんがマリアちゃんの指をぎゅっと握っていた。
でも――
「ふ…ふぇ……ふぎゃぁあああっ!!」
まるで僕が近寄ることを拒否するみたいに、赤ちゃんは大声で泣き出してしまった―。
「あ…アキラ、どうしよう…。マリアのせい?」
「………」
「ねむたいのかなぁ?おなかすいたのかなぁ?ねぇ、アキラどうしよう…」
大泣きしている赤ちゃんを前に突っ立ってしまった僕を、マリアちゃんが服の袖を引っ張って促してくる―。
「アキラぁ…」
「……抱いてみようか」
仕方なく僕が持ち上げて抱っこすると、赤ちゃんはすぐに大人しくなっていった。
そして僕の胸に手を伸ばしてくる――
「ミルクのみたいのかな…。どうしよう…パパ早くっ」
「………」
物欲しそうに指を咥えて、じっと胸を凝視する赤ちゃん。
匂いで分かるのかな…?
「アキラってミルクでるの?!」
「…うん」
服を捲りあげて、僕が飲まし始めたことに、マリアちゃんが驚きで目を丸くしてきた。
「すごーいすごぉーい!ママでもあんまりでないのに!」
「パパとママには内緒にしててね…」
「うん!わぁ…すごーい」
僕の乳首に吸い付いて、ゴクゴクと美味しそうに飲んでる赤ちゃん。
この感触は一体何日振りだろう…。
半月…?
いや、もう3週間は経ってるかな…?
その時のことを思い出して……子供のことを思い出して……涙が溢れてくる。
まるで今まで心の奥底に溜めてあったものが…一気に流れ落ちるみたいに――
「……ぅ…」
「アキラ?どこか痛いの?」
「…ううん…大丈夫…。ただ…」
ただ……自分が情けないんだ…。
ごめん…。
ごめんね…僕の赤ちゃん。
最低の母親でごめん…。
一緒にいてあげられなくてごめん…。
一体僕は何をしてるんだろう。
自分の子供にミルクもあげないで……一体ここで何をしてるんだろう…。
進藤…ちゃんと育てられてる?
一人で本当に大丈夫?
産んで、進藤にあげてしまえば終わりだと思ってた…。
それでやっと彼から解放されるんだって…。
もう誕生日に恋人を演じなくてすむし……抱かれずにすむって…。
なのに……今の状況は一体何なんだろう。
解放されるどころか…今はもっともっと…今度は精神的にまで縛り付けられてる気がする…。
ううん、縛り付けられてるんじゃない。
繋がってるんだ……キミと。
もう切っても切り離せない繋がりを…僕は産んでしまったんだ――
「……進藤…」
「しんどー?しんどーってなに?だぁれ?」
屈折なく聞いてくるマリアちゃんに、僕は心の奥底でずっと感じていたことを…初めて自ら口に出した――
「進藤は…僕の好きな人だよ…」
――そう
僕は彼のことが好きだったんだ…――
一緒にいた時は…彼から逃げるのにとにかく必死で…気付きもしなかった。
でもいざキミがいなくなると…もう二度と会えないと思うと……嫌でも本音が出てくる。
会いたい。
話したい。
打ちたい。
もう一度抱き締めて欲しい。
キスして欲しい。
……一緒にいたい……
キミには一度も伝えられなかった想いを、帰ったらきちんと直接伝えたい。
ううん。
絶対に伝えよう。
日本に戻ったら、絶対に…――
○●○●○
『おかけになった電話番号は現在使われておりません。もう一度番号をお確かめ……』
―――二週間後
再び日本に戻ってきた僕は、成田に着くなり進藤の携帯に電話をかけた。
だけど何度かけても同じアナウンス。
どうやら番号を変えたか、解約してしまったらしい。
やってくれるな…。
友達の和谷君はもちろん、両親でさえ知らないという彼の居場所。
絶対に見つけ出してやる。
そして…絶対に言うからね。
――好きだって――
―END―