●TIME LIMIT〜準備編〜●
山もあって海もある。
団地の真ん中には大きな公園。
幼稚園まで車で10分。
小学校まで歩いて10分。
スーパーまで車で5分。
コンビニはローソンとサンクスが徒歩圏内。
総合病院はちょっと遠いけど、内科は車ですぐ。
歯科や耳鼻科は団地内にも完備。
小児科なんて目と鼻の先。
お隣りは30歳前後の若夫婦が住んでて、子供はひとり。
オレの実家みたいなどこにでもある標準的な今の日本の新築物件。
3LDKの諸費用込で計2千万ちょい…か。
「…よし、ここにするか」
塔矢の出産まで三ヶ月をきった春。
オレは新しい家を求めて、東京から遥か遠く離れたこの土地に、今日は下見に来ていた。
7月に産まれる予定の、オレと塔矢の子供を育てる場所を探す為に――
ピンポーン
『はい』
「オレ。開けて♪」
『…ああ』
無事に契約を終えて、再び東京に帰ってきたオレは、その足で塔矢の家に向かった。
もちろん彼女の実家ではない。
塔矢はこの春から、出産まで身を隠す為に、少し郊外のこのマンションに住んでいる。
表向きは留学してることになってるから、もちろんここを知ってるのはオレだけだ。
ひたすらここで出産までの時間を潰す塔矢。
さすがに暇過ぎるのか、
「進藤!遅い!」
と少しキレ気味にドアを開けてきた。
「今日は休みのはずだろう?何してたんだ!」
「ごめんって。オレにだって色々予定があるんだよ」
「もう、早く打とう。暇過ぎて脳みそが溶けてしまいそうだった」
「はは…」
塔矢がオレの腕を掴んで、碁盤の前に引っ張っていった。
チラッと彼女のお腹を見る。
もう8ヶ月目に入った腹はかなりデカくなっていて、いよいよって感じだ。
嬉しいな。
すっげー楽しみ!
「今日検診だったんだろ?どうだった?」
「別に。順調だって」
「そっか、よかった」
「……あ」
「なに?」
「そういえば…女の子だって先生が言ってた」
「女の子…?」
お腹の子の性別がか?
うお、マジで?
いいこと聞いたー!
早速明日から女の子用のベビー服を揃えようっと♪
名前も考えないとな!
帰りに本屋にも寄ろう♪
「…キミは楽しそうだな。羨ましいよ」
「え?」
「僕は一日中この部屋に篭りきりだ。打つか家事か寝るしかない。こんな生活…あと三ヶ月も続けるのかと思うとぞっとするよ」
「……ごめん」
普通、産休に入った女の人なら今は出産と赤ちゃんを迎える為の準備で大忙しのはずだろう。
でも、塔矢はもともと育てる気がないから…準備も必要ない。
まるで仮腹。
代理出産のようなものだ。
溜め息をつきながら、彼女は碁盤の前に座った。
オレが来るまでも、ずっと棋譜並べをしていたんだろう。
途中になっていた石を片付け始めた。
「…まぁ、いいけどね。元々同じような生活だったし。ここから出れないことにちょっとストレスを感じてるだけだ」
「ごめんな。もっと来るようにするから…」
「うん、お願い。キミが来てくれると話し相手が出来るから嬉しいよ」
「……」
そんなに必要とされたら…勘違いするじゃん。
ぎゅーって抱きしめたくなる。
でもって、
「毎日来るからな!ていうかもう泊まってもいい?!」
って聞きたくなる。
それでなくても…塔矢とはあと三ヶ月でお別れなんだから……
オレは子供が生まれたら、さっき買った家に引っ越して…もう棋士は辞めるつもりだ。
本当にそれでいいのか、もちろん何度も考えた。
一応…四冠だし。
いや、そんなことより本当に塔矢と離れて後悔しないのだろうか。
たぶん…後悔はすると思う。
きっと会いたくて会いたくて狂いそうになると思う。
でも…この先どんなに想い続けても塔矢が振り向いてくれないのなら。
そして他の男と幸せになるところを見るくらいなら。
唯一の繋がりである子供と、全く新しい生活を始めた方がいい気がしたんだ。
本当は妊娠が分かった時…少しだけ期待してた。
だってオレの子供を十ヶ月もお腹で育てることになるんだぜ?
塔矢の気が変わって、やっぱり一緒に育てよう…とか、言ってくれたりしないかなって。
でも……ダメだったみたいだ。
塔矢はお腹の子に愛情を持ってくれていない。
ただ約束を果たす為に産むだけ。
やっぱちょっと辛いよな…。
「明日はもっと早く来てくれ」
「ああ。じゃあ…気晴らしに買い物にでも行くか?茨城か群馬あたりまで出たら知り合いはいないだろうし。明日の父親教室は休むよ」
「父親教室?そんなのにも行ってるのか?」
「え?うん…」
「…ふぅん」
もちろん母親教室ってのもある。
出産が初めてのお母さん達が通う教室だ。
塔矢も検診に行く度に進められるって前にぼやいてた。
もちろん…彼女が足を運んだことは一度もないけど。
ちなみに、父親教室は奥さん同伴の人が結構多い。
ぶっちゃけ…すっげー羨ましい。
オレだって不安なんだ。
本当に一人でちゃんと育てられるんだろうか。
奥さんがほしい。
塔矢がほしい。
塔矢と一緒に育てたい。
高望みなのは分かってるけど……
「……ん、…痛…っ」
「塔矢…?どうした?大丈夫か?」
「ん…平気。お腹の子に蹴られただけ」
「は?」
「最近よくあるんだ。まるで僕に文句があるみたい」
塔矢が口を尖らせた。
そりゃ…あるだろう。
お母さんのお腹の中にいるんだ。
生まれたら捨てられるって、当然もう分かってるはず。
《考え直してよ!》
って訴えてるのかも。
「きっと…生まれても側にいたいって言いたいんだよ」
「キミがいるだろう?」
「でも、自分を産んでくれる母親は…子供にとっては父親なんかよりずっと特別な存在だと思う」
「…そうなのかもね。でも、それを僕に求めない約束だろう?」
「…分かってる。言ってみただけ」
「最初に言った通り、僕は産むだけだ。育てるのはキミ」
「…ああ」
んな何度も言わなくても分かってるっての!
*****
「…名前、何にしようかなぁ」
その晩――自分の部屋に帰った後、さっき本屋で買った命名関連の本を早速読んでみた。
女の子かぁ…。
塔矢に似てたらいいなぁ〜♪
そうだ、名前も塔矢に似せようかな。
アキラ…だから、アキを付けたり?
漢字だと『明』かな。(明子さんがその字だから)
考えに考えぬいた結果、『千明』にすることにした。
塔矢にはもちろん内緒だけどな!
「なぁ、オレ出産に立ち会ってもいい?」
「…冗談だろう?」
「生まれてくるとこオレも見たいもん」
「絶対に駄目だ。そんな恥ずかしいところ、キミに見せたくない」
「出産は全然恥ずかしいことじゃないって」
「とにかく駄目だ!もし立ち会ったら、もう二度とキミと口をきかないからな!」
「ケチ〜」
最初はダメダメ拒否されたけど、会う度にお願いしてたら最後には折れてくれた。
イエイ★
「ただし、下は見るなよ!キミは横で僕の手を握ってるだけ!いいな?」
「うん、サンキュー塔矢♪」
*****
そうして迎えた7月14日。
分娩室で、汗だくになって半泣きで力み続ける塔矢の横で、オレは夫の振りをしてひたすら彼女を励まし、エールを送り続けた。
二時間の格闘の末、大きな産声を上げて生まれてきてくれた、オレらの娘――千明。
感動して泣いてしまった。
「塔矢…ありがとう」
「は……死ぬかと思った…」
一瞬躊躇ったけど、やっぱり我慢出来なくて、塔矢を抱きしめて…頬にキスしてしまった。
「ありがとう…ありがとう塔矢」
「進藤…」
「ごめんな…。本当にありがとう…。大好き!」
「…うん」
看護婦さんから産まれたばかりの赤ちゃんを渡された塔矢。
「可愛いな」
ってオレが言っても、
「……」
無言。
でも、しっかりと大事そうに自分の手で我が子を抱いていた。
「オレにやるのが惜しくなっただろ?」
クスッと笑ってきた。
「うん…ちょっと、ね」
「え?マジ?じゃあ…っ」
「でも、一度決めたことを変えるつもりはないよ…」
「……そっか」
じゃあ…退院したらお別れだな……
一週間後、あっという間に迎えた退院日。
もう戻ってくることはない。
でも本当は戻りたい。
複雑な心境のまま、オレは新たな土地で新たな生活をスタートさせた―――
―END―