●TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 おまけ●
※T医大病院のナース視点です
「ちょっと、嘘でしょ……?嘘って言ってよ……」
月曜日の昼下がり、T医大病院のナースステーション。
同期のナースがスマホの画面を見つめたまま、まるで世界が終わったかのような絶望的な声を漏らした。
「何よ朝から大袈裟な。……え?」
横から画面を覗き込んだ私も、手に持っていた回診用のトレイを危うく落としそうになった。
院内の連絡網に、あまりにも残酷で、あまりにも信じられない公式の『お達し』が掲載されていたのだ。
『小児科専攻医・櫻井仁先生、および同科・シンシア・スミス先生が入籍されました。また、スミス先生のご懐妊に伴い、今後のシフトに一部変更が――』
「櫻井先生が……結婚……!?
しかも、あのスミス先生と!?」
その瞬間、ナースステーションだけでなく、近くにいた若い女性局員たちの間に凄まじい衝撃波が駆け抜けた。
普段は冷静沈着な20代後半の美人女医の先輩までが、「ちょっとそれ、見せて!」と血相を変えて突っ込んできた。
T医大病院の小児科に所属する櫻井仁先生(27)といえば、院内の独身女性たちの間で『最後の超大型優良物件』として神格化されている存在だった。
東大医学部卒という最高峰の学歴、181センチのしなやかな長身、誰もが見惚れる端正な顔立ち。
何年か前に恋人と別れて以来、頑なにフリーのままで、アプローチをしても「今は医療と須本先生の背中しか見えません」と言わんばかりにストイックに働く姿が、逆に男らしくてたまらなかったのだ。
「そんな……。私、次の当直明けに櫻井先生をそれとなく飲みに誘おうと思って、新しいワンピースまで買ったのに!」
「っていうか、なんでスミス先生なのよ!?あんなキツそうで、いつも髪をお団子にガチガチに固めてメガネかけてるクールすぎる女医さんじゃ、櫻井先生も癒やされないって話してたじゃない!」
私たちがナースステーションの影で「あんなクールな女医より、可愛いナースの子の方が櫻井先生もいいよね」なんて呑気に盛り上がっていた会話が、今となっては滑稽で、惨めすぎて涙が出そうだった。
あの二人は、いつも医局や廊下で「須本先生の一番弟子は俺だ!」「私よ!」と、英語でバチバチに火花を散らしながら喧嘩をしていたはずだ。
病院中の誰もが、あの二人は絶対に反りが合わない『天敵同士』だと思い込んでいた。
「……でも、よく考えたらさ」
絶望に打ちひしがれる私たちの中で、一人の先輩ナースが遠い目をして呟いた。
「最近なんか変だったよね。櫻井先生、スミス先生の顔を見るたびに、自慢のポーカーフェイスを台無しにして妙にニヤニヤしてたし……。スミス先生も、櫻井先生に英語でからかわれた時、いつもならマシンガンみたいに言い返すのに、耳の裏まで真っ赤にしてフイッて顔背けてたじゃん……」
「あ……」
全員の脳裏に、ここ最近の二人の『不自然なディスタンス』の記憶が蘇る。
あれは喧嘩でも天敵でも何でもなかった。
私たちが「癒やしがない」だの「男として見てない」だのと外野で勝手な分析をしている間に、あの二人の間には誰も踏み込めないほど濃密で熱い恋がとっくに燃え上がっていたのだ。
「それにさ、今日の櫻井先生、見た?」
別の女医が、諦めたような、だけどどこか悔しそうなため息をつく。
先ほど廊下ですれ違った櫻井先生は、いつもより白衣の着こなしが格好良く見えるくらい、一人の『父親になる男』としての圧倒的な覚悟と大人のオーラを放っていた。
そして、いつもはツンと澄ましているスミス先生が、少し恥ずかしそうに、だけど誇らしげに彼の斜め後ろを歩いている。
その二人の空気感はあまりにも完璧なマッチングで、付け入る隙なんて一ミクロンも残されていなかったのだ。
「……はぁ。完璧にフラれたわね、私たち。アプローチすらさせてもらえなかったわ」
「東大卒のイケメン医師を射止めるには、やっぱりあのくらい綺麗で、櫻井先生と対等にやり合える知性がないとダメってことかぁ……」
私たちはスマホの画面を見つめたまま、一斉に深い、深いお通夜のようなため息を吐き出した。
院内のトップドクターたちの結婚と、新しく生まれてくる命への祝福――もちろんそれはおめでたいことだけれど。
今日ばかりは、T医大病院のあちらこちらで、櫻井先生に恋をしていた女性たちの失恋の悲鳴が、静かに、だけど激しく響き渡る月曜日の午後だった――
―END―