●TIME LIMIT〜櫻井仁編〜 おまけ2●
「は?……ちょっと待って、兄さん。今、なんて言った?」
T医大病院の産科医局。
専攻医としての過酷な当直を終え、泥のように疲弊していたオレは、缶コーヒーを片手に引きつった声を上げた。
デスクに腰掛け、不敵な笑みを浮かべているのは、9歳上の兄・慎一。
兄は手元にある何かのパンフレットを指先でトントンと叩きながら、信じられないことを口にした。
「だから来月ちょっと長めの休みをもらって、愛を連れてシアトルからシンシナティを回ろうと思って。ハネムーンってやつだよ」
「シンシナティ……って、須本先生のいる!?」
「そう」
頭を強く殴られたような衝撃が、オレの脳内を駆け巡った。
シンシナティ。
世界最高峰の医学雑誌『NEJM』に論文が載り、アメリカへスカウトされてしまった、オレの生涯の憧れ・須本大樹先生が家族と暮らす、あの聖地。
オレが先生に指導を受けたくて、恋人の凛と別れてまで東大病院を蹴ってこのT医大病院に来たというのに、当の先生は不在。
オレはここで、毎日「何のためにここに来たんだろ…」と頭を抱えて愚痴をこぼしていたのだ。
それなのに、このクソ兄貴は、何だ。
「……待って。兄さん、須本先生がアメリカにいるこの3年間の間に、先生に会いに行くの、これで何回目だよ?」
「ん?2回目だけど」
兄は悪びれもせず、当然のように指を2本立てて見せた。
「1回目は、須本が向こうに渡った1年目の夏だよ。愛がまだ大学3年生で夏休みだったから、予定を合わせてニューヨークを観光したついでに、シンシナティの須本の自宅に遊びに行ったんだ。あ、その時の写真見るか?」
兄がスマホの画面をオレに見せてきた。
画面の向こうでは、シンシナティの青い空の下、満面の笑みを浮かべる須本先生と明菜さん、そして、当時まだ大学3年生だった愛さんが、仲良くバーベキューのグリルを囲んでいた。
「ズルい……。ズルすぎるだろ、兄さん…ッ!」
オレは医局のデスクを両手でバンと叩いた。
悔しさと嫉妬で、涙が出そうだった。
「なんで兄さんばっかり! オレはここで、毎日泣き叫ぶ子供たちを抱いて、徹夜の当直をこなして、必死に泥水すするみたいに働いてるんだぞ! それなのに、兄さんは愛さんを連れて2回も先生に会いに行くなんて、あまりにも不公平だ!」
完璧に子供じみた八つ当たりだったけれど、今のオレにはそれを取り繕うポーカーフェイスの余裕なんて一ミクロンも残されていなかった。
「おいおい、みっともない声を出すなよ、東大卒のイケメン先生」
兄は呆れたように笑いながら、オレの頭を小突いた。
「いいか、仁。オレと須本はこの病院に入ってからずっと切磋琢磨してきた同期でライバルなんだ。あいつがアメリカで寂しがってないか、たまに様子を見に行くのは友達として当然だろ。愛と明菜ちゃんだって、学生時代からの最強の親友ネットワークで繋がってるんだから」
「そりゃ、そうかもしれないけど……!」
「お前はまだ、研修医を終えたばかりの小児科の基礎すらできてないペーペーだ。そんなお前が、今の時期に有給取ってアメリカに遊びに行く度胸があるのか? 須本の前でお客様気取りで突っ立ってる暇があるなら、ここで1件でも多くの症例を頭に叩き込め。小児科医として一人前になってから会いに行かないと、須本に笑われるぞ」
兄の言葉は、恐ろしいほどの正論だった。
正論だからこそ、オレの胸に鋭く突き刺さる。
兄は、オレが須本先生を失ってどれだけ落ち込んでいたかを知っているからこそ、あえてこうして不器用な発破をかけているのだ。
「……分かってるよ。分かってるけど、やっぱりズルい」
オレは不機嫌そうに缶コーヒーを煽り、自分のデスクの山積みのカルテに目を落とした。
1年目の夏のニューヨークとシンシナティ。
そして、3年目のハネムーンのシアトルとシンシナティ。
兄貴と愛さんが体験してきた、そしてこれから体験する、あの憧れの須本先生との甘やかで刺激的なアメリカの夜。
(見てろよ、兄貴。……見ててください、須本先生)
オレはポケットの中で小さく拳を握りしめた。
先生が不在のこの3年間で、オレは絶対にここで腐らずに、誰よりも強い、誰よりも優秀な小児科医になってみせる。
そして3年後、先生がこのT医大病院に帰ってきたその日には、兄へのジェラシーなんて一瞬で吹き飛ぶくらい、先生の最高の「一番弟子」として、その隣に立って見せるんだ!
「あ、そうだ仁。お土産何かリクエストあるか?買ってきてやるよ」
「いらない!……あ、やっぱりシンシナティの大学病院のロゴが入ったパーカー、買ってきて」
「はは、やっぱりお前、須本オタクだな」
兄の笑い声が響く医局で、オレは悔しさをエネルギーのブーストに変えるように、新しいカルテのページを勢いよく開き直したのだった――
―END―